真琴は下駄箱を過ぎたあたりから、違和感というか、何か妙な雰囲気を感じていた。
 階段を登りながら、考えを巡らせていると、その違和感に気付いた。正面口、下駄箱、今のこの階段、と同学年の生徒がいないのだ。
「時間間違えたかな?」
 慌てて階段を登って、廊下を進むと更に考えが確信に近づいた。
 静か過ぎるのだ。
「あ、ヤバい。意外に時間くってたのかな」
 急いで教室に進み、後ろの扉から教室に入った。
 真琴と薫の席だけが空いており、他は皆席について正面を向いていた。
 しかし、担任はまだ来ていなかった。
 真琴が開けて入ってきたのに、誰も後ろを向かない。まぁ、さほど友達がいる訳でもないので、声も出さずに入ってくれば、誰も振り向かないだろう。けれど、それでも不自然さはあった。
 ゆっくりと窓側の自席に進むと、メール着信でバイブの音が響き始めた。
 すばやくポケットの上から手で抑えたが、これは注目されてしまう、と思ったが誰も後ろを振り返らない。真琴は怖くなって、このまま教室を出ようか悩んだ。
 普通雑談しているところだろう。何かあったのか、相当重要な事態が。誰か亡くなったとか? でもクラスの皆はいるし。じゃあ、先生? まさか担任? だったら父兄への連絡メールとか、来てるはずだよね?
 つーか、私が知らないなら、他の一人や二人、知らなかったりしてもおかしくない。なのになんかこの一切口を聞いていない状況は変だ。変過ぎる。
「誰かいるの?」
 教室に真琴の声が響いた。
 反応する者、ゼロ。
 何かを感じて、ブルっと震えがきた。
 真琴はおろしかけていたディパックをしっかりと背負い直した。
 ガタッ、と先頭の方の女生徒が立ち上がった。
 それがきっかけとなったのか、教室いる全員が一斉に立ち上がり、後ろを向いた時には鳥肌が立った。
「ううぁ、うは」
「ゔぁ、あが」
 人の顔ではない、真琴は思った。
 いや人の顔だ。
 目も鼻も口もちゃんとある。
 肌が溶けたように崩れていたり、血だらけであったのなら、それなりに別の恐怖があったろう。
 表情だけが人のものではなかった。顔の左と右で泣き怒り……そんな風に、統合されていないのだ。どこかバラバラで、誰も普段の顔つきではない。どこをみて、どこに向かっているのかも読み取れない。とにかく教室の外へ出ようと、扉へダッシュした。
 しかし、男の子が二人ばかり、でたらめに椅子を投げつけてきて、その一つが跳ねて真琴に当たった。
 転んだ真琴が立ち上がる前には、扉側にいた何人かの生徒に回り込まれてしまった。
「どうしよう」
 ディパックを掴まれ、後ろにひっぱられた真琴は再び転ぶ前に、肩からはずした。
 引っ張っていた生徒は仰向けにころんでしまい、何人かの生徒を巻き込んでしまった。
「ゔぅあ」
 この際荷物はどうでもいい、身一つでも逃げないとまずい。全員が教室の後ろへは来ていないいまなら、なんとかなる。真琴は机を押しのけながら、前の扉へ向かった。
 机が変な形に並び変わり、出口がなくなった女生徒は、唸りながら机を叩いた。
 右へ左へ机と椅子を押しながら、懸命に進むと、なんとか教壇のところまで抜け出れた。そのまま教室の扉を開けて、真琴は職員室へ向かった。
 先生、助けて、そう思っていた。
 階段を下りきって、職員室の扉を開けると、また無反応だった。
「こっちもヤバイ?」
 出席簿を持った教師がゆっくりと立ち上げるが、やはり表情を作る回路が狂っているかのようだった。
「失礼しました」
 自分の声が引き金を引いたように、教師も一斉に立ち上がった。
「うゔぁ! ば」
 一人はうまく立ち上がれなかったのか、突然倒れこんできた。
 真琴はその教師が足を掴また。
 真琴は懸命に足をばたつかせた。上履きが脱げる代償に、手が離れたので急いで立ち上がると、そのまま職員室を出た。
 靴下になった右足が滑り、転びそうにながらも下駄箱までたどりつくと、背後から声を掛けられた。
「新野さん。どうしたの?」
 担任の金田美沙の声だった。
「せ、せんせい」
 真琴は顔を見るのが怖かった。
 ゆっくりと振り返ると、真後ろにその顔があった。
「ひっ!」
 真琴はビクッと飛び退いて、教師との距離を置いた。
「何! どうしたの? なんか変なことした?」
 金髪に朱色のアンダーリムのメガネ。ハーフ顔なのに外国語はさっぱりの国語教師がそこに居た。しかも一学期と変わらぬ表情で。へんてこなカエルの上履きを履いているところまで一学期のままだった。
「先生、先生は大丈夫なんですか?」
「あなたこそ大丈夫なの? 何におびえているの?」
 今度は真琴が頭の先から足先まで、金田に確認された。
「上履きどうしたの? 鞄は?」
「上履きはしょ、職員室に、鞄は教室に」
「大丈夫、落ち着きなさい。まず出席とるから一緒に教室に行きましょう」
 金田はすっと真琴の横に立って、手をとると階段へ向かった。
 本当に教室があの状態なら、戻るのは危険なはずだったが、真琴はこの異変のなかで、教室から抜け出て追ってくる生徒がいないことに気付いていた。
 だから少なくとも、教室の近くまでは安全のはずだ、と思ったのだ。
 階段を登りながら、金田が言った。
「どお、夏休み楽しかった?」
「え、ええ」
「どっか行った?」
「温泉に」
「温泉かぁ…… 夏の温泉も良いわねぇ。海水浴とかはしなかったの?」
「……」
「……ああ、いいのよ別に」
 真琴は教室の中に神経を集中させた。
「!」
「どうしたの」
 混乱していたはずの教室は机も椅子も、クラスの皆も整然と座っている。けれど雑談する声などは聞こえてこない。まだ意識支配されたままなのではないか、と真琴は思った。
「先生、気をつけて!」
 声を出すのが遅く、担任の金田は教室に入ってしまった。