その時あなたは

趣味で書いている小説をアップする予定です。

2016年07月

 派手に走って注意を引いてもいけないし、なにより胸の仕込みがずれてしまうかもしれない。上下に揺らさないように早足で移動した。
 それでも胸の詰め物が揺れてしまい、ものすごく邪魔だった。
 マミのメッセージをチェックするが、やはりみつかっていない。入った時のフロアを離れ、エスカレータに乗って上がった。
 上がっても、全くミハルの気配はなかった。
 他に男三人を連れて歩いているのだ、平日のショッピングモールではかなり目立つ存在のはずだ。
『こっちは今三階、そっちは居た?』
『二階をもう一度回っているけど、いない』
 いた? いないのやり取りで二画面ほど流れていく。
 息切れして、早足のペースが落ちてきた。
 中央の吹き抜けの辺りでしたのフロアを覗き込むと、聞き覚えのある男の声がした。
「それじゃ、そこに行ってみる?」
 佐津間だ。どこに行ってみるつもりなのだ?
 必死に角度を変えて覗き込むが、吹き抜けからは姿が見えなかった。
 メッセージアプリを音声に切り替えて、マミに伝える。
『三階より下。中央の吹き抜けのあたりで声が聞こえたよ』
『わかった、2階の吹き抜けをみてみる。キミコは1階まで下りて』
 慌ててエレベータのボタンを押すと、ちょうど下りがやってきた。
「順番を守れぇ、ボクが乗りますぅ」
 変な男に腕を引っ張られ、エレベータから引きずり出された。
 もう一度、乗ろうと思って扉に向かうと、今度は老人が手を横に張り出してきた。
「順番も守れんのか!」
「私が押したから止まったんです」
 言っているうちに中の人数が増えはじめ、私が乗った瞬間、重量オーバーの警報音がなった。
「降りろぉ、お前が降りろぉ」
「若いもんは下りてあるきなさい」
 人の腕を引っ張る男と、間違った順番を押し付けてくる老人の為にエレベータを一つのがした。
 私は周りを見渡して階段を見つけると、すばやくそこに回り駆け下り始めた。
 階段を降りていると、胸の詰め物の振動がサラシを通じて、繰り返し胸に伝わってくる。すこしこすれてしまっているのだろうか。意識し始めると、余計にムズムズするようになってきた。
 一階に降りた頃には胸の感じが変な風に出来上がっていて、ちょっとした動きを感じ取ってしまうようだった。
『どうしよう、動けない』
『どうしたの、具合悪いの?』
『胸が……』
『?』
 変な疑問符がいっぱいかかれたスタンプを返してきた。
『とにかく、動けない、そっちにはいた?』
『いない』
 私はスマフォとフロアを交互に見やっていると、通路の先に男子の姿を見つけた。
『いた、佐津間が一階にいた!』
 私は胸の詰め物が動かないように意識的に腕を回して抑えるようにして歩いた。
 余計に胸が強調されてしまい、すれ違う男性の視線を余計に集めた。
 やばい、恥ずかしいせいで、意識しなくていいのに余計胸の突起を感じてしまう。
「ん……」
 変に息が漏れて人を振り向かせてしまう。
 具合が悪いと思われるのか、女性も見るようになってきた。
 もう、ヤバイ……
「(キミコどうしたの?)」
「(マミ……助けて)」
「(何があったの? 言って)」
 恥ずかしくて、理由を言えなかった。
「佐津間はあっち、後で追いつくから、先に……」
「ダメよ、キミコに何かあったら私一生後悔するよ」
 えっ、けどこんなところで声に出しては言えない……
「大丈夫だから」
「胸? 胸が苦しいの?」
 苦しいわけじゃないんだけど…… 胸には間違いない、と思って私はうなずいてしまった。
「ちょっと、それヤバイじゃない。救急車呼ぼう」
「だ、大丈夫だから苦しいんじゃないから」
「けど、胸って…… どういうこと?」
 マミが背中をさすってきた。
 サラシを通じて、胸の突起を刺激してきて辛い。
「あっ…… マミ…… やめて」
「ごめん、くるしいの? 触らない方がいい?」
「触らないで、じっとしてれば治ると思うから、ミハルを追って」
「キミコを放おってはおけないよ」
 苦しいの、苦しくないの、で騒いでいたせいで、回りで人が立ち止まるようになって、少し囲まれているような状況になった。

 温かい湯につかったり、そのまま寝そべったり、欲望のまま指を唇を這わせたり……
 何もかも忘れて愛し合った。
 すべての嫌なことをわすれようとして、夢中になっていた。



「また同じ服を着るつもり? ほら、そこにあるでしょ?」
 中島所長が指差した。
 そこには以前買ってもらったバスローブが置いてあった。
 ためらわずに袖を通し、羽織った。
 所長がにっこりと微笑んだ。
 私はすこしその笑顔にゾッとしていたが、鏡に映る自分の顔は普通の笑顔だった。
 気取られてはいない。
 中島所長も体を拭うと、下着も付けずにバスローブを羽織った。
「お酒飲む? ワインしかないけど」
「ええ」
 リビングにワインを用意した。
 低くて大きなソファーに二人で座り、ワイングラスを手にとった。
「何に乾杯するの?」
「……」
「退院。そうそう。退院おめでとう」
 グラスを上げ、お互いの顔を見合いながらワインを口にした。
 お風呂で温まった体に、少し冷えたワインの温度が心地よかった。
「美味しい……」
 素直にそう言っていた。
「良かった。けど、お酒飲んでも大丈夫なのかしら」
「大丈夫です。何か食事の制限があったら聞いてるはずだし」
「まぁ、一杯ぐらいは、ね」
 私は急速に酔いが回るのを感じていた。
 さすがにこんなに体調に変化があるものなのだろうか。
 今のところ、具合が悪くなる方向ではなく、回りが速いという感じだ。
 私はグラスをテーブルに置いた。
「?」
「もう回ったみたい」
「しばらく飲んでなかったから? 大丈夫なの?」
「少し時間を置けば、きっと」
 きっと大丈夫のはず。
 その時、バッグからスマフォの振動音がした。
「あっ、電話……」
 立ち上がって取り出すと、画面に杏美ちゃんの顔が表示されていた。
「どうしたの?」
『先生、お休みのところ電話してスミマセン。あの…… 指示のあったコーディング部分で分からないところがあって……』
「えっ、どこのこと? 製品検査用のプログラムのこと?」
『ええ、そうなんです。明日は来られますか?』
「うん…… 朝からは無理だけど」
『良かった! もう分からないことだらけになっちゃって。待ってます!』
「じゃ、明日聞くから」
 通話を切った。
 所長が私を睨んでいた。
 ゾクッと、体が身震いした。
「知世、今の誰?」
「所長もご存知ですよ。杏美ちゃん…… 山田杏美さんからの電話です」
「スマフォ見せてよ」
「疑うんですか?」
「いいから」
 私は通話履歴を表示してみせた。
「杏美…… 何、この写真」
 杏美ちゃん本人の笑顔の写真だった。
「本人が送ってきたんですよ、電話帳用にって」
「それをホイホイ登録したってこと?」
「せっかく送ってきたのに悪いじゃないですか」
「登録して、見せて、その後削除すればいいじゃない」
「わかりやすいから、そのままに……」
 そうだ、思い出した。
 何故、身震いしたのか。
「うるさい! この杏美って女とどういう関係なのっ!」
 立ち上がって、胸ぐらを掴んできた。
 中島所長にはこれがあるのだ。
 忘れていたわけではない。けれど、迂闊だった。
 ここにくれば、救われるはずだった。
 杏美ちゃんの写真とかを見せれば、こんなことになるのは分かっていたはずだ。

 マミが突然立ち止まったので、私はその背中にガッツリぶつかってしまった。
「(イテテテ……)」
 鼻を強打した。
「(大丈夫? キミコ)」
「(なんで急に止まるの)」
「(店に入ったみたい)」
 見ると、入っていったのはランジェリーショップだった。
 木場田は堂々とハンガーにつるしたまま胸に当ててみたりしている。
 佐津間は顔を真っ赤にしながら、ミハルの横で一緒に鏡を見ている。
「(な、何やってるの?)」
 マミは普通にブラをひとつ手にとり眺めながら答えた。
「ショッピング?」
「(そうじゃなくて、連中だよ)」
「お客様でしたら、奥のコーナーにございますよ。よろしければ」
「?」
 店員が後ろから微笑みかけている。
「(え、私、私はここで結構です)」
「結構肩とかこりませんか?」
「ですから……」
「(声、大きいよ)」
「ね? 一度みてみませんか? お友達もご一緒に」
 店員のスマイルに気圧されてマミと私は奥の『大きいサイズコーナー』につれていかれた。大きいから、色が濃くて、しまって見えるものはどうですか、とか、キツくないのに大きく揺れないブラとかを勧めてきた。
「(マミ、どうしよう?)」
「(えっ、キミコ、これ買うの?)」
「(違う違う、どうやって店員の口撃をかわせばいいの? 巨乳の知識なんてないんだけど)」
「(だったら、本当の胸を見せるか、値札をじっと見て、無理だ〜とか言ったら)」
 店員の勧めてくる模様がバリバリについた濃いピンクのブラの値札をじっと見た。
「……ちょっと無理かな?」
「!」
「失礼しました、もうワンサイズ大きいものを持ってきます」
「(ねぇ、どうしよう)」
「(立ち去るのみよ)」
「(すみません、また来ますね〜)」
 店員が悔しさをにじませた笑顔を作った。
「またいらしてくださいね」
 店員は去り際に店のカードを渡してきた。
『サイズ揃えに自信あり』
 あ〜 完全に『巨乳過ぎて困っている女』だと思われた。
 ミハル達はランジェリーショップを出て、ショッピングモールの中心の方へ向かった。
 すれ違う人の数が少なくて、追跡がバレるのではないかと、少し怖くなる。
「(どうしよう、こっちの通路から回り込まないと、まるでつけてるみたいじゃない?)」
「(もっと近くまで近寄ったりしたけど、大丈夫だったよ)」
「(マミ一人ならそうかもしれないけど……)」
「(わかった。そっちから回ってみよう)」
 ミハル達の後ろを離れ、右の通路を回ってから、また合流する方を選んだ。
 分岐した反対側で、ミハル達が靴屋に寄ったようだったが、店の見失うほど複雑な構造ではなかったため救われた。
 マミが私の方を見て言った。
「(それにしても)」
「(なに?)」
「(視線が凄いわね。男の人って、あんなに露骨に胸見てくんのね)」
「(もうやだ、突然何言うのよ)」
「(私のと比べてる人もいるし、ニヤってするキモいのもいた)」
 ほおが熱くなった。
 自分自身の胸をみてくる恥ずかしさと、同時に、マミの胸をみる男に怒りも湧いてきた。
「(なんかこっちもジロジロみてやろうか、と思うよね。どう思うか分からせたいよね)」
「(男の人は平気よ。俺のコレを欲しがってるのか、って思うらしいもん)」
「(キモ…… それ、マジ?)」
 佐津間でそれを想像してゾッとした。
「(み…… みて)」
「(うわ! 鳥肌?)」
「(自分でもビックリした)」
 本当に男はそんなことを思うのだろうか、そうだとしたら理解し難い。性別には超えられない大きな壁があるとしか思えない。
「!」
「(いない! キミコ、見失っちゃった)」
 マミと顔を見合わせて、うなずいた。
「(お互いバラバラに探して、メッセージアプリで合流しよう)」
 マミが奥へと探しに入り、私は元来た方に戻ることにした。

 助けてくれる人はいる。
 たった一人。
 私はこのまま寝るのが怖かった。
 病気、取引先の社長、頭の中に何度も現れる女性。
 全てから守ってくれるわけではないけれど……
 それでも、そう思いながら、その人に電話をかけていた。
 話し終えると、タクシーを拾って乗り込み、その人の所へ向かっていた。
 実験の打ち上げの後にも行った、あの場所に。
「退院した日に家にくるなんて、体は大丈夫なの?」
「中島所長…… 私…… もうダメです」
 部屋に入り、扉を閉めたと同時に、私は泣きついていた。
 中島所長の顔を見た瞬間に、心の中のダムが決壊した。
 自分の中から溢れ出てくるものを、抱きしめてくれる人間が必要だった。
「……何か、電話の雰囲気もおかしかったけど…… そう」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 自分が何を謝っているのか分からなかった。
 おどろくほどの量の涙が、所長のうなじに落ちていった。
 中島所長は拭いもせず、聞き返しもしなかった。
 ただずっと、抱き合っていた。
 曲げていた手が、すこししびれたころ、所長が行った。
「中に入りましょう」
 私達は体を離して、部屋に入った。
「お腹空いてる?」
 私は首を振った。
「じゃあ、お風呂入りましょうか」
 うなずいて答えた。
 中島所長がバスルームの方に行って、帰ってきた。
「聞いてもいい?」
「……」
 自分の中でも何がどうなっているのか、整理はついていなかった。
 XS証券の、林のことは言いふらしてやりたいが、共同開発をするとか、新しい研究棟を作ってもらっている立場から、言ったところでどうにかなるものではない。
 頭の中に何度も現れる女性のことは、もう現実なのか幻覚なのかハッキリしない。これも話してなんとかなるものではなかった。
 自分の病気…… その先にある死。
 私は、所長にその話しをした。
 ある病院での手術待ちのリストに入ったこと。実際の手術を受けるのにかかる金額が法外なこと。待っている時間と残された命の時間との競争であること……
「そういう手術の待ち行列って、お金で繰り上げてもらうことができるのよ」
「!」
 そういうことは考えた。
 しかし、同じことを考えている人の行列で一つ先に入れてもらう為のお金は、一体いくら掛かるのというのか。
 順番を替えたために、死ぬかもしれない他の人のことは? 他人を殺し、自分を生かす…… 人の道から外れていないだろうか。
「……」
 私は所長に体を寄せた。
「それは出来ない……」
「そう……」
「けれど、死ぬことも受け入れられない……」
「もう、そういうお金だと、思わない方がいい。初めから手術にかかるお金だとおもうしかない。リストに誰がいるか分からないのよ。知世が抜かされているかもしれないのよ」
「……」
 後はそのリストの順番を変えるだけの金額だ。
 正直、その額を返せる見込みはない。
 今、ここで言えば、中島所長は貸してくれるだろう。
 それは同時に束縛から逃れられなくなることも意味している。
 救われるならそれでいい…… そう考えるのか。
「さあ、お風呂はいろうか」
「……」
「髪、洗ってあげる」
 ドキッとした。
 所長が髪を洗ってくれた思い出。
 湯船につかりながら、仰向けに頭だけを出し、そこを洗ってくれたのだ。
 顔に少しはねたお湯が当たるだけで、頭皮と毛髪がシャワーのお湯ですすがれていく。
 指の腹で丁寧にマッサージされるように、洗っていく。
 そのまま眠りにつけたらどれだけ素敵か。
「あれ? どうする?」
 私はうなずいた。
 お風呂では、当然のように体を洗いあい、洗うだけにとどまらずお互いを慰めあった。

 この変装は明らかに失敗だ。
 これが私だとは分からないかもしれないが、こんな精神状態では冷静にミハルの後をつけることなんて出来ない。
 街の駅にそろそろつくだろう、と思い、スマフォを開いてマミのメッセージを見た。
『佐津間と一緒にバス乗り場で並んでる』
「えっ?」
 思わず声に出してしまった。
 バスの車内の視線を集めてしまった。
 私は書き込んだ。
『こっちももうすぐ、駅だよ。どこ行きのバス?』
『待ってたよ〜〜 早くきて〜〜 バスは、団地行きのバスね』
 団地? 佐津間と二人で何をしようというのか。
 両親が団地に住んでるのか? お嬢さんとお付き合いしている者です、とか。私、佐津間と付き合っているんだ、とか親に話すのだろうか?
 私は頭が疑問でいっぱいになった。
 乗っていたバスが駅に着くと、私はその団地行きバスの乗り場を調べて、足早に向かった。通話をしてしまったらマミだ、と気付かれてしまう。メッセージアプリでやりとりしていると、もうバスは着いて、乗り込み始めているらしかった。
 乗り場は駅の反対側。
 急いでエスカレータを登り、駅を抜け、また急いで駆け下りた。
 変にギリギリにバスに着いて、悪目立ちしても尾行がバレてしまう。
 バスを見つけて可能な限りの早足であるいた。
 バスが発車する数秒前に乗り込むことが出来た。
「(げっ!)」
 思わず声が出そうになった。
 目の前に私服の佐津間がいたからだった。
 私は目線が合わないよう、スマフォに夢中なフリをした。
 バスのドアが閉まって発車した。
『マミ、どこに座っているの?』
『後ろ、後ろ。右後ろ』
 ゆっくりと向き直ると、そこにマミが座っていた。
 思わず話しかけそうになったが、声がきかれたらバレてしまう。
 私はマミをスルーして後方の椅子の方へ行き、聞き耳をたてた。
『ここからだとさすがに聞こえない』
『こっちからでも聞こえないよ。多分、口動いてないから、何も話してないよ』
『どこに行くとかは分からないの?』
『バスの車内アナウンス聞くと、途中にこのバス会社が作ったショッピングモールがあるみたい。きっとみんなそこに行くのよ』
 私は周りを見渡した。
 ショッピングモールに行く、という感じには見受けられない。
 しかし、平日だ。ショッピングモールは普通は土日とかに行くものだろう。
 いくつか、バス停を通りすぎると、そのショッピングモール前、という名のバス停がアナウンスされた。瞬間に停車のボタンが押された。
『ミハル達が押した?』
『押してはいないみたい』
 バスはゆっくり減速し、バス停車用に充分スペースをとった場所に入っていった。
 すぐ奥に、ショッピングモールのロゴタイプが入ったゲートがあった。
 バスが止まると、佐津間がくるっときびすを返して、出入口へ進んだ。
 ミハルは佐津間の袖をつまむように引っ張って、離れないようについてバスを降りた。一人置いてマミが続き、更に二人間にあって、私がバスを降りた。
 マミがチラッとこっちを向いて、私も急いで追い付いた。
 少し、ミハル達と距離を取ったところで、マミが口を開いた。
「(なに、その胸!)」
 距離があるとは言え、普通に声をだして気付かれてもいけないので、小さい声でそう言った。
 私は顔が熱くなった。
「(この胸にするまで大変だったのよ)」
「(そうじゃなくて、変に目立っちゃうじゃない)」
「(そうだね…… 私もバス乗ってから気がついた)」
「(乗る前から分かるでしょ…… もう、神代さん、自分の趣味に正直すぎるよ)」
 ショッピングモールのエスカレーターに乗って、フロアを上がっていった。
 ミハル達はどこを目指しているのだろう。
「(あ…… あそこ)」
「(えっ、あれって木場田?)」
 ショッピングモール側には木場田と鶴田が待っていた。ミハル達と合流して歩き始めた。
 マミが肘で突っつきながら言った。
「(佐津間と二人っきり、じゃなくて安心した?)」
「(別に、佐津間とか興味ないし)」
 マミは佐津間とくっつけたがっているのか、からかいたいだけなのか、佐津間のことでいじってくる。
 はっきり言ってしまおうか、私はマミにしか興味がないって。
「(あっ、止まって止まって)」

 私のブラを引っ張って、ナマチチを見て、そのまま固まってしまったのだ。
「ショックなのは私の方よ、なんでこんなことするの!」
 私は引っ張られてズレたブラを整えながら、そう言った。
「……」
 まだ固まっている。
 首をブルっと振ると、神代さんは話し始めた。
「ごめん、おもったよりも重症だったもので」
「私の胸が小さいのは別に病気じゃないのよ。しかも重症なんて言い方しないでよ」
「この状態でパットバリバリ入っているとは」
 ブラの上から胸を揉んできた。
「やめて!」
「つーかこれにオーバーブラをすると歩いているだけでブレてしまうわ。ちょっとやり方を変えるから、ブラ外しといて」
「ここで脱ぐの?」
「じゃあ廊下に出る?」
「見ないでよ」
「見ないと付けられないでしょ」
 どうやら、パットをしてサラシを巻き、その上のさっきのオーバーブラをするようだった。
「こんなスポットライトを浴びても影がこれだけしか……」
 神代が覗きこむようにして私の身体をみていた。
「憐れむような目で見ないでよ!」
 神代さんと、フードの女の子がサラシを引っ張り、ぎゅうぎゅうに締め付けてきた。
「い、痛いんだけど……」
「我慢して。これが土台になるから、しっかり巻いておかないと」
「わかった。我慢するから、とにかく、早くして」
 結局、胸で五分、メイクで三分、服を着替えてさらに四分と十二分もかかったしまった。
「ほら、見てみ?」
 私はずっと手に持っていた鏡で一通り確認した。
「髪型はツインテール、顔の輪郭が分かりにくくなるメガネをして、派手なリップでそこに注目させ、」
 神代さんは私の持っている鏡を下に向けた。
「胸はA→Fへのサイズアップ、ま、これは本当はGとかHになる予定だったけど、土台が残念だったということで」
「そこの部分しつこいよ」
「……ごめん。豊胸した上に制服とは違う色のシャツを来てるから、まさか白井さんとは思わないね。そして若干ダメージが入ったジーンズ」
「これなら、尾行してもわからないね」
「問題は、マミが白井に気づくのか?」
「それは写メって送っとけば」
「そうかそうか」
 私はマミの変装後の画像と、自分の画像を神代さんに撮ってもらい、自分の画像はマミに送った。マミは、位置情報のメッセージを送ってきた。
『今はカフェで待機中』
 どうやら、ミハルは近所で一番大きい街へ行っているようだ。
「制服どうしよう」
「マミのと一緒に、私達で寮に持って帰っとくよ」
「ありがとう、じゃ、行ってきます」
 神代さんに先生に見つからずに学校を抜けるルートを教えてもらい、その通りに進んで学校を出た。
 〈鳥の巣〉の壁とは真反対の方向で特に危険はない。
 学校を出ると、誰ともすれ違わないまま小さなバスターミナルについた。
 誰も載っていないバスは乗車口を開けて停まっていて、私は乗り込んで座席に座った。
 おそらくモニタをしていたのだろう、運転手が小屋から急いで出てきた。
「出発します」
 運転手はルームミラーでチラッとこっちをみた。
 慣れない視線に私は戸惑った。
 おそらく、私の胸を見ている。
 この身長、この体の幅や厚みから考えると、胸だけ不自然に大きいのだ。
 この歳になっても、男の人に胸を凝視されたことはなかったから、バスの運転手のおっさんの視線がいやらしいものに思えて、怖くなってしてしまった。
 変装です。パットバリバリ入っています、と服に書いておきたいくらいだった。
 バスはいくつか停車場を通り過ぎた。
 荒れ果てた畑、ボロボロの家が、キッチリした住宅街に替わってきた。
 やはり、〈鳥の巣〉周辺は人が住まないのだ。
 学校や寮は安全なのに?
 そういう事実を、皆は知らない?
 いや、違う。通学路で〈転送者〉に襲われた。
 学校や寮には何か、普通に分からない仕掛けがあるのだろうか?
 そんな考え事をしていると、バスの座席が混んできた。
 つり革を持っている男の人の視線が気になる。
 やっぱりこっちをみている。こっちというか、胸だ。
 急に自分が自意識過剰になったのか、とも考えたが、やっぱりあからさまに視線が胸を向いている。気が付かない訳がない。

 周りにはXS証券の社長室の風景が。
 そうだ、XSビデオオンデマンド……
 いやらしい行為をしている男と女。
 ……そもそも、始まりはそいう会社の社長か。
 私は、急に周囲の男性の視線が気になって、動揺しはじめた。動悸が早くなっている。
 何かこっちを見られているような気がする。
 林が私の服を破ってないだろうか。変なアプリを起動させて、私の場所がバレてないだろうか。あの男は林の変装ではないのか……
 私は思い立って、全然知らない駅で下りてしまった。
 混雑してきたた車内にいることが耐えられなくなったのだ。
 何本か電車が止まり、何本かの電車が通過した。電車が来る度、壁側を向いて顔を隠した。
 電車が来ない時はファンタジー小説を読んだ。
 そうやって時間が立つ内、車内が空いていることに気がつくと、再び電車に乗った。
 林がいないことを何度も確認すると、小説を開いた。
 しかし、そこには不思議なソースコードがオーバーレイして映し出された。
「!」
 何なの、と言ってしまいそうだった。
 自分のこの不思議な力に、今日は無償に腹がたった。そのコードを読んでいくと、何のソースコードか分かった。林が依頼していたコードだった。
 小説を読んでずっと駅で待っている間、電車に乗って周りを見回している間にも、少しずつコードが組み立てられ、いつの間にか構築されていたのだ。
 出来上がったのは純粋にロジックの部分のみだった。
 実際の株取引の部分をどう呼び出すのか、あとはそういう手足だけを調べて付け足せばよかった。だから、自分の仕事でいえば、八割九割は終わっていた。
 タイプする必要もあるから、実際はもっと残りの作業は多いのだが、ざっと見渡しても気になるステートメントはない。打ち込みさえすれば、おそらく何もデバッグせずに動いてしまうだろう。
 後は、林が言っていた、擬似市場、擬似株取引で確認すれば、これが有用であるかどうか判明するだろう。さっさと打ち込み、送って、林のことと一緒に全てを忘れよう。
 念の為に、ソースコードを頭の中で何度か見返し、問題がないことを確認したころ、電車が自宅のある駅についた。
 そのまま家に戻り、ノートパソコンを開くと、頭の中のコードをタイプした。
「ふぅ……」
 部屋の灯りをつけていないことを思い出し、立ち上がってスイッチに触れようとした時、ボゥっとした光りが見えた。
 その光りは人の高さ程、縦に伸び、次第にくっきりと人の姿を作り出した。
「ホログラム?」
 灯りをつけたら消えてしまう。
 私は立ち止まってその光りを見続けた。
 それは何度も『読め』と言ってきた、あの女性だった。
「あなたは、何なんですか?」
「わたし…… ガザッ…… は…… バザザッ…… の……」
 酷い電波状況で聞くアナログのラジオのようだった。
 そういえば、生まれた家の近くに小さなトラックで八百屋が来て、野菜を売っていた。高齢のおじさんは、ラジオをぶら下げ、ナイターを聞いていた。『ワンストライクワンボール、振りかぶって投げました!』そんな風な、意味の分からない言葉がガサガサした音と一緒に、夕暮れの空に混じって思い出される。
「すいしょ…… ザッ…… おう…… あなたたた…… グバッ…… あなたです」
「私?」
 自分の鼻を指差すと、立体映像のような女性がうなずく。
「あなたは……」
「……」
 私は灯りのスイッチを入れた。
 LEDの強い光に照らされ、女性の姿が一瞬で消えた。
「何よ」
 私は怒ったようにそう言った。
 灯りをつけて、消したのは自分なのに。
 ホログラムのような光の女性が、何を言うか、確かめるのが怖かった。
 何もかも全て失ってしまう気がした。
 命にかかわるほど、大切なものを。
 辺りを見回しても、その女性の姿はもう見えなかった。もう忘れよう、そう思った。
 机に戻って林に返信するメールを書き、ソースコードのファイルを暗号化して添付した。
 後は勝手に暗号化のパスワードが書かれたメールが別送される。
 未だに社長室での林の姿が思い出される。
 もう恐怖はなかったが、代わりに当初を上回る嫌悪感が満ちていた。
 直接会いたくない。
 同じ空気を吸いたくない。
 思い出して鳥肌がたつのが分かった。

「ここ、だよね?」
 私は不安で独り言を言っていた。
 そして扉の上に突き出している部屋名を指さした。
「演劇部。うん。間違いない」
 しかし、開けるのには勇気がいる。
 教室もカーテンが掛かっていて中が見えなかったし、扉の擦りガラスにも黒い紙を貼り付けてあって、光が入ったり漏れたりしないようになっている。
 しかし、マミが神代さんに話をつけてくれて、何か変装の道具を貸してくれることになっているのだ、何も不安なことはない。
 そう思って取っ手に手をかけるが、やっぱりそこでも躊躇してしまう。
「……」
「誰?」
「ぎゃっ!」
 私は思わず声を上げた。
 背後から近づいてきた何者かは、『誰』の『だ』と『れ』の間に私の脇腹を指で突っついてきたのだ。
「す、すみません」
「なんだ。その声は白井さんだね?」
 私は振り向いた。
「その声は……って失礼ですね、|神代(こうじろ)さん」
「……声のこと、気にしてるんだっけ。それは失敬した。というか、話は聞いているよ。さっさと入り給え」
 神代さんは扉の方に手を差し伸べた。
 何やらマントのようなものを羽織り、魔女のようなトンガリ帽をかぶっていた。
「その格好と喋りかたはなんですか?」
「近々行う演目の練習をしているのだよ。もちろん魔女という役柄だ。見ればわかると思ったが。この説明で理解してくれたかね?」
「面倒くさいんで普通に話してよ」
「……ノリが悪いなぁ」
 神代さんは演劇部部室の扉を開けた。
「さあ、どうぞ」
 私は神代さんに肩を押されながら部室へ入った。
 中は部室というより倉庫で、天井の灯り近くまで棚から小道具がはみ出るように詰まっており、薄暗かった。かろうじて足をおけるところを探しながら奥へ入っていった。
 棚の横を抜けると、教室への抜ける入り口があった。
「ようこそ白井さん、おまちしてました」
 フードを被った女子が一人立っていた。
 そこは舞台になっているようで、辺りは暗く、真ん中にスポットライトがあたっていて、その中心に椅子が置いてあった。ようこそ、と言った後の両手の向きがそこを差してていることから、そこへ座れということらしかった。
 私は薄暗いなかを慎重にあるいてそこへ座った。
 鏡を差し出されて、私はそれを手で持った。
「ツインテール、は触っちゃダメなんですよね」
「えっ?」
「マミさんから聞きましたから。えっと髪型が出来ないので、体形とメイクと、服装でいきますんで……」
 遅れて神代さんも舞台にやってきた。
「……やっぱり胸か」
「えっ?」
 言った時には神代さんが私のブラウスのボタンを外し始めていた。
「何するの」
「サイズアップ」
 私がブラウスを脱ぐと、フードをかぶっていた女の子がそれをハンガーにかけた。
 私は鏡を持ち、あれこれ工夫しながら腕で胸を隠した。
「ほらっ…… じゃま」
 神代さんが、私の腕をとって上に上げた。
「22年度のヤツなら合いそうね」
 フードの女の子がささっと走って戻ってきた。
「そ、それなに?」
 膝や肘につけるようなサポーターのように見えた。
「サイズアップ用のオーバーブラよ」
 はじめて聞く単語だった。
「オーバーブラ?」
「ブラの上にOnするブラジャーよ」
 神代さんはそのオーバーブラを私の胸の上のあてがい、首をひねる。
「うーん」
 ジロジロ胸を見られるので、少し肘を下げて胸を隠し気味にする。
「ほら、腕を下げない」
 これから前転をするかのように腕をあげていた。
「ちょっとゴメン」
「いやっ!」
「……」
 神代さんは固まってしまった。

 取引の理論は頭に入った。
 後はどうやってコード化し、かつ、何ミリ秒でもいいから速い処理にしてくれ、という林の要望にどう応えるかが問題だった。
 割り算掛け算を減らすとか、そういうレベルまですすめるべきなのか、色々と悩むことは多かったが、これはこれで楽しめそうだ、という気がしていた。
 光ケーブル作成は進んでしまっている。製造などで新たな課題が出てくるまでは、私がこのコードに取り組んでも問題ないだろう。
 少し、林の様子が変だった。
「坂井先生」
「どうしました?」
「坂井先生、単刀直入にききます。私をどう思いますか?」
 妙に体を寄せてきている。
 迂闊だった。林は男、私は女だ。
 いくら私が男、林に興味がなくても、向こうがどう思っているかを読むべきだった。
 危険だ、と思い立ち上がった。
「待って」
 手を取られ、引っ張られた。
 反動でまた椅子に座ってしまった。
「答えを聞きたい」
 林の顔が、私の限界を超えて近づいている。鼻と鼻がぶつかりそうだ。
 私は右手で林をはたいた。
「好きだ。あの飲み会の時に、分かったんだ。知世さん、すごく良い匂いがする」
 怯むようすもなく、一度は離れた顔を近づけてくる。私は声を上げた。
「大丈夫ですよ。ロックしてますから」
「訴えます、今回の提携はご破産です。さっきのコードも作りません」
 私は転び、仰向け状態で手と足をバタバタと動かしながら扉方へ向かった。
「……」
「ともよ、なんて呼び方しないで。本当に契約を破棄します」
「……」
 林は立ち上がって頭を垂れた。
「すみません」
 私はなんとかドアノブに捕まって立ち上がった。扉を開けようとしたが開かない。ロックされているようだった。
「自分には妻も子供もいます。本当にどうかしています。このことは誰にも話さないでください」
 頭を下げているが、謝っているような口調に感じなかった。
「この部屋に入った時から、貴方が私を受け入れてくれるものと信じていました。まさか答えがノーだなんて……」
 何を根拠にそんな風に思ったのか、この部屋に入ったことで行為に及ぶであろうことに同意したとでもいうのか。仕事の話ししかしていないのに。
 林が腰の辺りに手を当てて何かしている。
「開けて! このドアを開けて」
「坂井先生。せめてこれを鎮めてもらえないだろうか」
 林はズボンとパンツをおろし、下半身をさらけ出した。
 私はドアノブの上にあったカバーを思い切り叩いて、そこにあったサムターンを回した。
 同時に錠が開き、ノブを回すと社長室を出た。
 何がなんだか分からない。
 なんであんな勃起物を晒して、女性が応えてくれると思ったのか。
 おそらく、何度もああやって成功していたのだろう。だから、私にも同じようにした。そうとしか思えない。
 あそこで林と行為に及ぶ女性はどういうつもりなのだろう。
 お金? 安定した生活? 林に体を許して、代わり林が何をくれるというのか?
 もうひとつの部屋のドアを開けると、秘書が座っていた。
「お帰りでしたら、下に車が……」
 秘書は何があったのか察したのか、最後まで言わなかった。私は秘書の前を通り過ぎ、XS社を出ると開いていたエレベータに乗り込んだ。
 ビルはそのまま地下鉄の駅に直結していて、そのまま地下鉄の改札を抜けた。
 タブレットを見ると、何事もなかったかのような林のメールが入っていた。
 謝罪の言葉も何もない。
 ただ仕事の依頼をしているメールを読んだだけで、こんなに怒りが湧くものなのか。
 タブレットを閉じて、高校の頃から何度も読んでいる本を取り出し、開いた。
 素敵な世界へと繋がるタンス。
 タンスにかかっているいくつもの服を避けて、奥へと入っていくと、たどりつくのは別世界。魔法の王国の、森の中。
 そこで繰り広げられる美しい王女と騎士の恋。
 魔法に冒険、見知らぬ文化に見たこともない絶景。そこにはワクワクするものの全てが詰まっている。
 時々、こうやって気を紛らわせる。
 何度も読んだ部分を読み返してみたり、忘れていたエピソードを思い出す為に真ん中あたりに指を入れてそこを読んだり。
 気分が紛れたり、気分が穏やかになったりするものだった。
 しかし、今日は違った。
 文庫本が透けて、その先に林の体が見えた。

「分かった」
「じゃあ、追っかけるね」
 マミとハイタッチして、教室から送り出した。
 私はバッグをもって職員室に急いだ。
 職員室に入るとあまり時間もかからずオレーシャを見つけることが出来た。
 私が近づいていくと、オレーシャが立ち上がった。
「白井さん、私に用ですか?」
 周りの教師の視線が集まった。
「合宿のことで……」
「〈鳥の巣〉内のことについてですか?」
「そんな感じの内容です」
 私は曖昧に答えた。
「佐藤先生、面談室って今空いてますか?」
 佐藤先生が手元の端末をフリックして助教を確認しているようだった。
「……ん、っと。大丈夫だよ、オレーシャ」
 オレーシャって、呼び捨てかよ。やるな佐藤先生。
 ちょっと二人の関係に興味を持った。
「ありがとう。じゃ、白井さん、面談室行きましょう」
「えっ、ここじゃダメなんですか?」
「ここでは個人的な会話の内容が筒抜けになりますので、面談室でうかがうことになってます」
 佐藤先生には言われたことのないセリフだ。
 オレーシャの腰のあたりまである金髪が揺れるのを見ながら、面談室についた。
 オレーシャがカードをあてると、カシャンと軽い音がして扉の鍵が開いた。
 先生が手前に座り、私は奥に座った。
「ここなら話しても平気ですよ。私は個人情報は守ります。さっきあの場で話さなかったのは、情報の勉強を教える立場として、情報の重要性を伝えたかったからです」
「そうですか」
 オレーシャがかきあげた金色の髪が、窓からの光を浴びてキラキラと輝いて指の間から落ちてくる。
 長いまつ毛と、綺麗な瞳、鮮烈な口紅の色、頬や少し見える胸元の肌のきめ細やかさ。
 若いロシア女性が最高だ、という人がいるが、今、少しだけ理解できた。
「……で?」
「あっ、す、すみません。みとれてしまったもので」
 クスクスとオレーシャが笑った。
「学生が先生に対してお世辞を言うものではありません」
「……そんなことありません。先生はすばらしいです。美しいです」
 両方のほおをそれぞれの手で抑えた。
「なんか恥ずかしいデス。そんなことより合宿の話しに移りましょう」
 私はいきなり言っていいものか迷った。
「あれ? 話しがあるのでは?」
「……はい」
「待ちます」
 私は思い切って言ってみた。
「合宿の話なんですが、私、参加したいです」
「はい、歓迎です。もちろん、参加者が多い場合は技術の高い人を優先しますので、期待にそえるかわかりません」
「あっ、それもあるのですが、私、〈鳥の巣〉には入れないんです」
「そうですか。それでは合宿は参加できません。本当に残念です」
「違うんです。〈鳥の巣〉側から要注意人物になってしまっていて」
 オレーシャがうなずいた。
「なるほど、入りたいけど、ブラックリストに載っている、というわけですか」
 脇においていたタブレット端末を取り出し画面に指を滑らせた。
「まず、本当に『ブラックリスト』に載っているかは確認します。貴方の勘違い、ということもありますから。そもそもそんなに簡単に〈鳥の巣〉には入れない。入れたのだとしたら、簡単にブラックリストに載せないでしょう。何しろ、人手が足りないのですから……」
 ということは、合宿という名目ではあるものの優秀な学生を〈鳥の巣〉に入れ、システム再構築を手伝わせるという話なのだろう。
「今、分かるのですか?」
「今分かる限りでは『ブラックリスト』に白井さんの名前はありません。これが最新かが問題ですが、問い合わせてみれば簡単に分かることです。後で、生徒全員照会してみます」
「ぜ、全員ですか?」
「IDはわかってるんでリストの付け合せをしてもらうだけです。秒もかからないと思います」
 そうだろうか。この国の行政がどれくらいのレベルか理解が間違っていないだろうか? そんなに自動化・IT化されていない気がする。
「そこが不安だったのですね。大丈夫ですよ。とにかく〈某データセンタープロジェクト〉は人材が不足しています。一度入れているということならば、能力は申し分ないはずですし」
 タブレットを下げ、私の目を見つめた。
「私にまかせてください。一緒に行きましょう。合宿へ」
 先生は握手を求めてきた。
 手を差し出すと、ギュッと握られた。
 白くて柔らかい手だった。
「よろしくお願いします」
「はい。また明日」
 私はおじぎをして面談室をでた。

 そこにはプログラミングの夏合宿先が書かれていた。
 〈鳥の巣〉内のデータセンター。しかも、私がボランティアで入った空港横のデータセンターではなく、セントラルデータセンター。某システムダウンの中心地だった。
「は、入れるんですか……」
「合宿って、寝泊まりってこと?」
 オレーシャが抑えるように手を上下に振りながら、言う。
「騒がない。10分で全部答えて。時間がないのよ」
 言われるがまま、アンケートのような、問題のような、クイズのようなものを答えていった。
 計算機の基礎的な知識を答えさせるものと、合宿参加の意識の有無、食物アレルギーの有無、等々。本当にアンケートのような部分もあった。当然、個人の回答して回収されるだろう。
 全部を入力すると『送信』した。
 送信するとオレーシャの持っているタブレット側に表示される。その光をみていると、あっという間に全座席から回答が返ってきているようだった。
「今回答出来ないひとは保留を選んでね」
 オレーシャがタブレットを見ながらカウントダウンを始めた。
 まだ全員が回答していない、ということだ。
「6、5、4、3、2、1……」
 オレーシャの長いまつげが持ち上がって、見開かれた瞳に、タブレットに表示された回答終了の文字が映っていた。
「はい終了です。それではみなさん、今度はプログラミングの授業で会いましょう」
 そう言って手を振った。
 教室から出ていこうとするオレーシャを佐藤は見送りながらしめた。
「今、プログラミングの授業と言っていたけど、オレーシャは今後副担任として時々ホームルームとか参加するのでよろしく」
 オレーシャが扉をしめた。
「さっきのアンケートなんだが、合宿先が〈鳥の巣〉内なんでな、両親にちゃんと確認して欲しい。申し訳ないが、さっきのアンケートに書いてあった通り、学校側は〈鳥の巣〉内での安全を保証出来ない。覚悟のある人間だけで行ってくれ」
「覚悟って……」
「……」
「先生、何言ってるのかわかってんのかよ」
 確かにさっきのアンケートに書いてあった。
 もっと細かい内容が後でメールで送られてくるらしい。
 だとしても、内容が180度変わっているわけもなく、同じような内容をもっと細かく抜けなく記載しているだけだろう。
「最も人手が必要なところで、国も学校もこのプロジェクトに期待しているんだそうだ」
「答えになってねぇよ」
「学校は安全を保証出来ない。けれど可能な者は応募して欲しい。それだけだ」
「……」
 皆は呆れ顔だった。
 誰がどう考えてもそこは安全ではないが、学校も国も行け、と言っているのだ。
 佐藤先生は続けて事務的な内容を幾つか説明してホームルームを終えた。

 授業の合間も、私はずっと考えていた。
 もう一度〈鳥の巣〉に入れるチャンスが来た。
 あの中に入れば、もしかしたら〈某システムダウン〉の時の、空港の出来事の後のが思い出せるかもしれない。
 それに加え〈扉〉の支配者を名乗る集団について、何か分かるかもしれないかった。
 〈扉〉の支配者が〈転送者〉を操れるのだとしたら、〈某システムダウン〉の首謀者…… じゃないにしろ、大きく関わっている集団に違いない。
 私は自分の過去を知ると同じくらい、〈某システムダウン〉への興味があった。
 放課後、私は職員室に行って確認することにした。
「マミ、ごめん私……」
「用事があるから先に帰っていて」
 ミハルが先にそう言った。
「う、うん。気をつけてね」
 マミがそう答えると、私を肘でつついてきた。
「(やるんでしょ)」
「(ごめん、そのことなんだけど)」
「……」
 ミハルはスタスタと教室を出ていった。
「なに! やるって言ったじゃん」
「やるから。ちょっと先にマミ一人で尾行してて」
「え〜 無理だよ〜」
「ちょっと先生に合宿の話し確認してくるだけだから、お願い」
「合宿?」
 マミが何か考えているようだった。
「もしかして、行く気?」
「……可能なら」
 そう言って私はうなずいた。
「分かったよ。行き先はメッセンジャーみといてね。後、神代さんには話しとくから、かならず変装しといてよ」

 その日より後は、誰もお見舞いには来なくて、次第に体調も安定してきた。
 林がお金を払っていった、というので私は退院まで、同じ個室で過ごした。その数日の間に、テレビや雑誌で、自分の姿が掲載されはじめ、何人かの看護師さんに「雑誌で見ました」、とか「テレビで見ました」と話しかけられた。どんな写真にも、中島所長がこだわっていた『水晶の研究棟』が写り込んでいて「水晶の女王」みたいですね、とも言われた。
「水晶の女王…… ですか」
「ほら、あの…… この所長さんと坂井さんが……」
 私と所長が二人とも女性なせいで、まるでアニメ映画であったダブルヒロインのようだ、と言いたいらしい。
 女性同士で好きあっている、明言されている訳ではないのに、ぼんやりと匂わせている、そんな関係。
 おそらく、実際の研究を報道したいのではなく、そういう演出を加えて、大衆の興味を引くよう、雑誌やテレビが創作したに違いない。
「所長と研究員なんで、そんなに仲がよいわけでじゃないんですよ」
「ああ…… わかります。長がつく人とはあんまり仲良くできないですよね」
 看護師社会でも、その説明で何か腑に落ちるところがあるようだった。
 そして、それ以上は突っ込んでこないことが分かり、私は少し安心した。梓と知世と呼び合うとか、この前も家に泊まったとか、そんなこと言ったらどんなことになるかは目に見えていた。
 退院の日はXSの林がやってきて、入院費を払いたいと言い出した。
「共同研究しているだけであって、林さんに何かお金をいただく訳には」
「この前のコードの件ですよ。上条くんから聞きました。先生の指摘だって」
 そんなことまで林に伝わってしまったか、と私は思った。
「あれはあれで、入院の退屈が紛れてちょうど良かったです」
「こちらにとっては非常に重要だったので。ソフト会社ってやつはやっかいですよ。自分で作ったバグを直すのに、また金を請求してくる。こっちのミスに漬け込んで、変な不具合を混入させてくるんだ。自分で仕掛けたタネでまた自分が儲ける。そうやって骨までしゃぶってくるんだ」
「そうですか? そうは思いませんが、そういう会社もあるんですね。とにかく、それが私の入院費を払っていただく理由にはならないので」
「気にしないでください。私にとってそれだけの価値があったっていうことなんですから」
「……ここで払ってもらうと、なんか他にも頼まれそうで嫌なんです」
 ハッキリ言ってしまった方が話しが早い気がしていた。
「ズバリその通りですよ。鋭いなぁ。まあつまりは、割に合わない。金額が少ないってことですよね。じゃあ、こうしましょう。ここの入院費は先生が支払って、後でちゃんと倍がけの報酬を振り込みますよ」
 そう言って林は引っ込んだ。
 病院の会計を進めると、金額にびっくりした。
 果たしてこの額を払って、自分の貯蓄は大丈夫なのだろうか……
 保険会社の人から電話があり、私はスマフォを手にとった。
「すみません。入院一時金のことなんですが、支払いは出来ないということになりました」
「そんな、保健契約の時、確かどんな入院でも一時金が出るという話だったと……」
「そうなんですが…… 坂井様の病名が、約款にある『高頻度入院が予測される病気』に該当しまして、支払いが出来ないということに」
「そんな、全くでないんですか?」
「はい」
 私は怒りでスマフォを切った。
 ただでさえ入院費は高いので、一時金が出たところで焼け石に水ではあったのだが、出ないという事実に腹がたった。この病気のままでは、手術時の一時金も出ないのだろう。
「坂井先生、振り込みの一部を前払いしましょうか?」
 林がしゃがみ、うつむく私の視線に入って、そう言った。
 払えない金額ではない。そう思いながらも、私は林にこう言った。
「お借りできますか」
「貸すんじゃないですよ。正当な支払いの前払いです」
「すみません」
 これで今日持ってきた次の話も対応せざるを得ない。
 病院の手続きを終えると、林が切り出した。
「先生の光ケーブルはもう敷設されます。そして我々のXS証券の、新たな株式市場が開かれます。これの完成には、坂井先生のプログラム能力が必要なんです」
「私はプログラム能力はないですよ」
「上条くんから色々と聞きましたから。コードを直す力だけじゃないのは分かってますよ。そんなに短期間に長いコードを書いて欲しいとか、そういう無茶なことではありません。上条くんにあらかじめ見てもらってますからね」
 何を作れというのか、まったく乗り気ではない私は、憂鬱な気分になった。
「私の書いたこの株取引アルゴリズムを、プログラム化して欲しいんです。環境とか言語とか詳しいことは上条くんから連絡が行きます。概要を説明しますから、一緒にXS証券まで来てください」
 病院の前のタクシーに乗り込み、林は会社の住所を告げた。
 後はずっとスマフォでメールを打ったり、頻繁にかかってくる電話に出たりしていた。
 思ったよりも早くXS証券につくと、導かれるまま社長室に入った。
「まずは文書で説明します」
 株取引の用語を知らない私にとって、株取引のルールなどは全く分からなかった。
 とにかく金額の大小、買うのか売るのか、具体的なレベルに落としてもらって説明を受けた。
 そして、なにやら数式を書いて説明が始まった。
 分割して、何度も何度も売りと買いを繰り返す。どこで儲かるのかということは分からない。とにかく早く、高頻度でトレードすることで他社を出し抜くことが目的だった。手数料が非常に高くついて損をするのでは、と思ったが、そこは問題にならない、と言っていた。

 その女性気づいてざわざわしながらも、全員が着席すると朝のホームルームが始まった。
「もう皆気づいていると思うが」
「転校生ですか?」
「話は最後まできけ。どう見ても転校生じゃないだろう」
 転校生か、そういう考えもあったか、と私は思った。
 年齢や推定する国籍から教師かと思っていた自分の考えの浅さが悔しい。が、転校生であるという解は間違えであることが分かった。
「佐藤先生、どうみてもというは失礼じゃないですか」
「そうだよセクハラだよ」
 当の女性は何を言われているのか理解していないようで、周りをあちこち見ながらまばたきした。まばたきを見て、女性のまつ毛が非常に長いことに気がついた。そう言えば他人のまばたきを意識したのは初めてだ。
「いいからちょっと静かにして。ええ、百葉高校もまだ新設校で、教師数が足りてなかったのですが、このクラスにもようやく副担任が付きました」
「新しい先生の話って、全校集会とかでやるんじゃないの?」
「全校集会でもやるけど、今日はまだやらないの。だから話を最後まで聞いて。色んな話しないといけないからね。じゃ、まずは紹介します。えっと…… オレーシャ・イリイナ先生。担当はプログラミングになります。ではオレーシャ、自己紹介を」
 佐藤先生が手を向けて、女性が会釈した。
「オレーシャ・イリイナと言います。ロシアでハッカーしてました」
 佐藤先生が慌てて口を挟む。
「だから、違います。オレーシャはプログラマーですよね。いい、まだちょっと日本語が上手じゃなくて」
「けど、すらすら話してただじゃないですか」
「間違えました。プログラマーしてました」
「えっ、言い換えるの。つまんね〜」
「ハッカーって言ったら受けるって聞いてました。ドン引きだったので修正します」
「佐藤先生、オレーシャ日本語イケるじゃないですか」
 教室が話し声で溢れてしまった。
「頼むから静かにして、色々話すことあるって言ったよね。オレーシャ続けて」
「私は新しく始まるプログラミングの授業を担当します。プログラミングの選抜者は夏に合宿ありますから、覚悟するように」
「……」
 新任の教師は、いきなりいろんな情報をぶっこんできて、教室内はそれを理解するのに必死だった。
 合宿? 選抜者? 新しく始まるプログラミングの授業?
「そういうことだ。急な決定だが、夏の合宿の件は後で掲示板に入れとくから見ておくように。それじゃ、質問タイムだ。選ばれた者は起立して質問すること」
 左前の人のタブレット画面がフラッシュした。
 と、思うと、自分のタブレットも画面がフラッシュした。
 やばい、また当たってしまった。
「オレーシャ先生はどこの部活の顧問しますか?」
「今は決まった部活の顧問に入る予定ありません。やるとしたらパソコン部とかなのかな、と思ってます」
「次、|白井(しらい)」
 どうも緊張してしまう。
「えっと、|白井(しらい)です。先生は日本語が超上手いですが、どこで習ったんですか?」
「……あなたが|BBA(ビービーエー)声の人ね。」
「えっ?」
「ごめんなさい、気にしないで。ロシアで習いましたよ。モスクワで。語学の良い教室を探すより、ネットの方が便利だったから、そういうところで学びました。日本人はロシアの女性に非常にやさしくしてくれるから」
 オレーシャは全身が見えるように、前に出てきた。
「この服も、日本の方が作ってくれました。日本の方がいだくロシアの人のイメージなのだそうです。帽子も頂いたのですが、今日は置いてきてしまいました」
「銀河鉄道の列車に乗り込みそうだね」
「……あっ、あれの格好ってこと?」
「知ってんの?」
「アニメ? コスプレ?」
 教室がざわざわとなった。
 私はさらっと流された『BBA声の人』と言われたことでショックを受けていた。
 何故、佐津間に続いてこんなことを言われなければならないのか。
 悔しくて涙が出そうだった。
「白井、もういいぞ。じゃあ、次」
 別の人のタブレットがフラッシュしてその人が質問した。
 やっぱりありきたりの質問をして、普通に教室がざわついて、佐藤先生がしめた。
 オレーシャはそのまま下がるのかと思ったが、また主導権をとって話しを続けた。
「これからテストを配布しますから、10分間で回答してください。テスト、というか選択式のアンケートのようなものです」
 みんなタブレットに注目した。
 確かに課題のところに『緊急テスト』と書かれた文字が追加されている。
「はい、はじめて」
 開いた人から順にどよめきが起こった。
 一歩遅れて、開いてみる。
「なっ……」

「もう帰っちゃうんで。先生もあまりいると負担でしょうから、少し話をしたら私も帰ります」
 上条くんが、横の椅子に座った。
「光ケーブルの試作は、先ほど林さんがおっしゃった通りです。非常に早く、順調です。特許は後で、という形になります。早く敷設して実際に使いたいそうです」
 言い終えると、上条くんが視線をそらした。
「?」
「病室にいる先生には言い出しにくいんですが……」
 杏美ちゃんと婚約したとか?
 研究室からXS証券に引き抜かれた、とかだろうか。
 何か、嫌な予感がした。
「コードを、ソースコード見てもらえませんか」
「あ、なんだ。そういう話?」
「あ、すみません。あの、困っていて。どうでしょうか?」
「良いわよ。なんのプログラム?」
「実は、XS証券側のプログラムです。株取引の」
 現状態でも、上条くんは、なかば引き抜かれたようなものだ…… 今更そんなことを報告はしないか。
 少し寂しいような気持ちになった。
 私はうなずくと、上条くんはタブレットからコードを見せた。
「全体が必要でしょうから後で送ります。ここなんです」
「ああ…… なんかかなり変な比較式使っているけど…… もっと簡単に判断出来るんじゃないの?」
「そうなんです! ボクもそう思って」
 上条くんが自分のことを『ボク』というのも珍しい。
「あ、すみません。声が大きいですよね」
 ざっとコードを眺めると、なんだろう、やたら多い変数名が気になる。
 何度も何度も別の変数に代入してしまっている。
「資料はソースコードだけなの?」
「林さんが怒ってソフト会社との契約破棄してしまって。これ以上の資料はもらえないんだそうです。この箇所かな、と思ったのも、私がソースファイルの差分をとったから分かっただけで……」
「林さんがソフト会社に要求した内容は?」
「こっちです」
 林の指示、という文書も、不思議な言葉で書かれていた。
 証券会社の用語なのか、良くわからない言葉が続く。
 上条くんに解説してもらいながら、指示の内容を読み解く。
 この短時間で分かるようなことじゃない、と思ったので「時間くれる」とだけ伝えて、コードを送ってもらうことにした。
「すみません。頼むだけ頼んで帰るなんて…… あ、違う違う。お見舞いに先生の好きなケーキ買ってきました。食事の制限があるか確認してませんけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、ありがとう」
「後で食べてください。冷蔵庫に入れておきますね。それじゃ」
「うん」
 私は軽く手を振った。
 長い間寝ているだけだったのに、ちょっと会話して考えごとをしたら、急に疲れてしまった。確かに倒れたのは、あの病気のせいだろうけれど、病気はこんなに体力を奪ってしまうものなのか、と恐ろしくなった。
 いつの間にか寝てしまったようだった。
 気がつくと、部屋が夕日の色に染まっていた。
 看護師さんが運んできた食事を食べ、その後に上条くんが持ってきたケーキを食べた。
 看護師さんが、その分も合わせて記録していた。
 私は「私、食事制限があるんですか」とたずねたら、単純に食中毒可能性や、摂取カロリーを記録が必要だから、ということだった。
「消化が良ければ、何を食べてもいいですよ」
 ちょっとの間だが、入院している為に体が弱っている可能性があるという。油っぽいものを食べると、消化が悪くて体に負担をかける可能性がある。
「だから、すぐ疲れちゃうのかしら」
「そうですね。退院したら普段より少し体を動かすようにしないと、動かさないと体は弱っていきますから……」
 私は少し納得した。
 食事の後、少し休むと私は上条くんのコードを改めて確認した。
 気になる行がいくつかあって、目をつぶるとそこがハイライトされた。
 多分、ここがおかしい。
 都度、比較用の変数に代入しないで、直接変数同士の計算をさせるか、全部をまとめて計算した結果を代入すれば良いのだ。
 一体、この計算は何をしているのだろう。
 林がソフト会社へ指示した式と同じ、とは言い難い。
 何かどこかの解釈を間違えている、としか思えない。
 私は上条くんに気になる行と、林が指示した計算はこうなのでは、とメールを書いた。
 昼間と同じように、急速に疲れてしまい、消灯時間より先に灯りを消して寝てしまった。
 翌日、上条くんからの返信と、その先の林からの興奮したような返信を受けた。
 正直、林からの返信はどうでも良かったが、今後もこういうことがあった時に頼ってきそうな雰囲気を感じた。

「また子供みてぇな座りかたするのかよ」
 佐津間が何か言っている。
 私は目を凝らして殺気のする方向を見つめる。
 横をみると、ミハルも同じ方向を見ていた。
 もう一度視線を戻すと〈転送者〉を処分する為に、軍が発砲しているのが見えた。
 黒いE体ーーEの文字を横に倒したような首無しーーの〈転送者〉に何度も弾丸を当てているが、一向に効果がない。
 某システムダウンが起こってから、百葉高校の辺りや、〈鳥の巣〉を中心としたエリアにこの〈転送者〉という侵入者が現れるようになった。ものを破壊し、人を襲う。扉や蓋があるとそこを利用して出入りしてくる。酷く厄介で恐ろしい者だった。だからこの〈鳥の巣〉と呼ばれる大きな壁で辺りを囲んだのだが……ごくまれに、こうやって〈鳥の巣〉以外に〈転送者〉が現れる。
 |〈転送者〉(やつら)は内部のコアという部分以外は、多少傷ついても自己修復してしまう。コアを見つけ、身とコアを分離しないと効率的に破壊出来ないのだ。私は|経験上(・・・)それを知っていた。
「苦戦してる」
 ミハルがボソりと言った。
「ナニナニ?」
 マミが同じように後ろ向きに椅子に座り直す。
「……」
 マミは目を細めている。
 が、昨日と一緒で何も見えていないようだった。
「つまんない」
 マミは正面を向いて座り直した。
「ほら、佐津間、見てみて?」
「なっ!」
 気がつくと佐津間がこっちをちらっとみてから、正面に向き直った。
 ほおが赤い。
 反対側のマミは、クスクス笑っている。
「ホレホレ……」
「あっ!」
 マミが私のスカートをめくっていたのだ。
「こら! 佐津間、見やがったろ」
「見て、え、よ」
 見たい、だと!!
「あっ、いや、言い間違え…… 見てねぇ」
「ふざけんな!」
 私は佐津間のほおを叩いた。
 佐津間は向こうを向いた。
 私の手も痛かった。佐津間のほおも叩かれたせいで赤くなっていた。
 木場田や鶴田、マミ。周りの席のクラスメイトの視線が集まった。
 やり過ぎた…… 引いてしまった。
「木更津がヒラヒラさせるから…… チラッとだけだ。ガン見したわけじゃないぞ」
「さ、最初から正直にそう言えばいいのよ」
「すまん」
「こっちも引っ叩くことはなかったよね。ごめんなさい」
 自分で謝って、謝っている自分をキモく思ってしまった。
 けれど謝らなければ、悪目立ちして『変な人』スタンプを押されてしまう。
「これくらい、い、痛くねぇし」
 ばぁか、佐津間。
 こっちは男になんかこれっぽっちも興味ねぇんだし。
 デレてるとか思ってんかこいつ、気持ちわりぃ。そう言いたかった。けれど表情にその気持ちが出ないように両手で顔をおおった。
 クラス内での立場というものを守らなければならない。
 冷たい女であってはならないのだ。
「うぉっ」
 轟音がして車内が大きく揺れた。
 私は後ろのガラスに頭を打ちそうになった。
「何?」
「エンジンかかった」
 ミハルはもう正面を向いていた。
 確かにエンジンのガラガラ音が始まっていて、運転をしているおじいさんが戻ってくるのが見えた。
 スクールバスは走り出し、途中で止まることもなく学校についた。
 クラスに入ると、担任の佐藤が先に教室に入っていて、何やら背の高い女性と話していた。佐藤先生は男として大きい方ではなかったが、小さい訳ではなかった。女性は、その佐藤先生より背が高かった。
「……誰だろう?」
「おはようございます」
「先生、その人誰ですか?」
「ちょっとまて。後で話すから。あと、その人誰って言い方あるか」
 何人かが寄っていって先生からその女性のことを聞き出そうとしたが、答えはなかった。金髪の長い髪。黒い長袖のワンピース。今の季節の百葉で着るには、暑すぎる格好だった。その上、袖や裾にはファーが施されている。

「ミハル、今までどこ行ってたの?」
 聞こえているようだが、答える気はなさそうだった。
 マミに耳打ちされた。
「(そういう聞き方じゃだめだよ)」
「(じゃあ何て)」
 マミはミハルの方に近づきながら言った。
「ほら、用事があるって学校で別れちゃったじゃない? 結局、あの後どこ行ったのかなって」
「……」
「ミハル、教えてよ!」
「(だから、そんな大声だしたって……)」
「(けど!)」
「じゃ、逆に。さっきの取り込み中のこと教えて、と言ったら?」
「……」
 その通りだ。ぐうのねも出ない。
 個人の自由だ、どこに行くのも、そのことを|他人(ひと)に言うも言わないも。
 いや、待て。
 取り込み中のことを洗いざらい話してしまえば、ミハルも放課後の行動をある程度話してくれるかもしれない。
 ミハルは取り込み中に二人はチューをしていたと思っているはずだ。

『じゃあ、言うわよ。取り込み中のこと。濃厚すぎてぶっ倒れないでよ』
『キミコ、何を話す気?』
『二人の取り込み中の行為についてよ』
『まさかずっと唇を重ねていた、なんて言わないよね』
『当たり前よ。ミハルのベッド使うわよ。ここで実践して見せるから』
 マミの腕を引っ張ってミハルのベッド押し倒す。素早く馬乗りになった。
『こうよ。上着のボタンを外して……』
『キミコ、恥ずかしいから……』
『肩からブラを下げて、お胸を柔らかく揉むのよ』
『キミコ……』
『唇を重ねて、耳、耳の下、首筋を通って、胸の上あたりで少しジラし……』
『あっ…… ん……』
 手を後ろにまわして、マミのブラを完全に取り去る。
『そして…… ん…… こうよ…… んく…… 乳首に…… ん…… 吸い付くの……』
『あっ…… あっ……』

「キミコ、ベッドからおりて」
「あれ」
 目の間にマミは居なかった。
 ミハルのいつもの冷静な視線がつらかった。
 自分だけがミハルのベッドの上に乗っていた。
「私何やってたの?」
 マミの方を向くと、全く目線を合わせず、
「宿題しよう」
 とだけ言って、マミは机に向かってしまった。
 私も手のひらをグーで叩いて、思い出したように言った。
「……そうだ。私も」
 三人はそれぞれ机に向かって宿題や、今日の復習とか、思い思いの時間を過ごした。



 寮の食堂で朝食をとった後、ミハルが私達を無視して部屋に戻っていった。ミハルの行動を探ろうとしていた私とマミは、話し合いのチャンスが出来た。
「どうしよう。今日も同じようにどこかに寄って帰るって言ったら」
 そう言いつつも、私は尾行する気満々だった。
「あとつけてみる、ってこと?」
 私はうなずいた。
「そう尾行よ。だから、なるべく気付かれないようにしなきゃね」
「ミハルの行き先が分からないし、学校を私服でウロウロできないし」
「……メガネとかは?」
「持ってな…… あっ、そうだ。委員長」
「|神代(こうじろ)さんがどうかした?」
「話しつけてみる」
「なんとかなるのね?」
「多分ね」
 マミがニッコリ笑ったので、私はなんとかなると思ってそれ以上考えなかった。
 ミハルを尾行し、ミハルの行動を明らかにしないと。悪の手からミハルを救う、それがなにより重要で優先された。
 ミハルとマミと私は、またスクールバスの後部座席に座っていた。そもそも、木場田と鶴田と佐津間が先に後部座席に座っていて、その横を空けておき、私達は呼ばれてそこに座るのだ。
 ガラガラと大きい音がするバスは、今日もまた通学路の途中で止まった。
「じじいが毎日整備してんのにこれかよ」
「もう古すぎるのよ。バス買い換えて欲しい」
「署名集めて学校に出す?」
 私は何か殺気を感じて後ろを振り向いた。

「呼んでます」
 意識が薄れていくなか、女性の姿が現れた。美しい顔立ち、胸元の宝石。あの晩、私が道路に飛び出す寸前のところを、抑えてくれた人物。
 その人は、光るような薄い色の髪が腰まである、長身の女性だった。どことなく、中島所長の若い頃にも思える。
 現実の景色は全く白く霞んでしまっているのに…… これこそ幻覚というものだろう。
『読め』
 女性が、|また(・・)そう言っているのが分かる。
 読めないです。
 私はどうやってこの字を発音していいか、なんと読んでいいのか……
 その女性は私の方を見て、睨んだ。
 そのまま足も使わず、スッと私に近づいてきて、私を通り抜けていった。




 気がつくと私はベッドの上で寝ていた。
 点滴が繋がっていて、口にもマスクがあたっていた。
 重大な状況なのかは分からなかった。
 もうどこも苦しくなかった。
「気が付きました?」
 返事をしようとしても、口がまともに動かない。しびれているのか?
「大丈夫ですよ。寝ていてください」
 看護師が言う言葉はハッキリと聞こえる。自分の意識はしっかりしている。
「ぉがぉっぁ……」
 口が、喉が、正しく言葉を発せられない。
 何故なんだろう。
「落ち着いてください。我々に任せて。状態は安定しています。寝ていていいですから」
 手も足も同じように動かない。意識はしっかりしているのに、何もかも動かない。
 このまま寝てしまったら、本当に私は……
 次に起きることはないのでは?
「…がぁ…… ぁっ……」
 全く動かない。
 また見ている景色が白んでくる。
「っ……」
 意識もぼんやりし始めた。
 宙に浮いているような文字列がスクロールし始める。またあの、水晶動作のソースコード。
 心配そうに見つめる女性看護師の後ろに、あの女性が立っている。
『読め』
 声が出ないのに……
 助けて……




 次に目が覚めたのは、病院の個室だった。
 蟻地獄から体が飛び出して、生き返ったような気分だった。
 全く体が動かなかった、あの時の状況は脱したようだった。
 しかし、告知の時に聞いたように、対処療法でしかない。根本的な治療を受けるには、巨額の医療費を用意し、長い待ち行列の最後に書き加えてもらって、手術を受けねばならない。
 ベッドを起こして、上体を起こすとチャイムがなった。
「どうぞ」
 ドアが開くと、上条くんの顔が見えた。
「先生……」
「坂井先生。無事で良かった」
 上条くんの前に、XS証券の林取締役が割り込んで、先に病室に入って来た。
「(止めたんですが……)」
 申し訳なさそうな上条くんの声が聞こえた。
 ものすごい匂いのする真っ赤なバラの花束を私の足元に放り投げると、林は隣の椅子にドカッと座った。
「今、上条くんに色々やってもらってるよ」
 上着からタバコを取り出すが、何か考えたようにそれを戻した。
「これは確実に特許が取れる。先生の特許だ。超高速の光ファイバー。試作ももう出来ますよ。これを武器にXS証券は新たな株取引の世界を作り上げる」
 看護師が入ってきて、迷惑そうな顔をした。
「すみません、声が大きいです」
「ここは個室じゃないか。声が大きいと言われるが、壁が薄いせいじゃないのか?」
「すみません。病院なので、静かにしてもらえますか」
「分かりました。すみませんでした。」
 上条くんが頭を下げた。
 看護師が怒りかけたところを上条くんになだめられた格好になった。
「まあ、とにかく順調だよ。先生の水晶の棟もどんどん作っているから」
「えっ? あれは来年とかの話じゃ」
「来年じゃ遅いって。商売はスピードだよスピード。まぁ、みてなさい。半年で作らせるから」
 上条くんが苦笑いしていた。
「じゃあ、元気そうで良かった。早く研究に復帰して、もっと凄い水晶の応用研究をしてくれ」
 林は、上着のタバコを口に加えて、病室を出いていった。
 上条くんが残った。
「ついていかないでいいの?」

「なに? この箱?」
 小さい箱を見つけた。フィルムで包まれていてまだ新品のようだった。
「コンドー…… ってこれ」
「エイズ予防用じゃない」
「いや、そう言うと普通見たいに聞こえるけど!」
 そう言って何とか私の気持ちを伝えたかったが、そもそも私とマミの間には感覚のズレがあるようだ。
「両親が心配して持たせたんでしょ? 私も親に渡されたよ」
「女子寮に入るのに?」
「百葉高校は女子校じゃないのよ?」
 う〜む。
 私は更にダンボールの奥を目指した。
 おしゃれなステンレスのボトル、紙に包まれたマグカップ。非常食なのかレトルトのおかゆ。まだ今は使わない教科書が3冊。小物入れと、メガネとメガネケース。
「ミハルって目悪かったんだね」
「目が悪かったら、逆に今、コンタクトしているでしょう? そのメガネ、度が入ってる?」
 試しにかけてみた。確かに何も変わらない。
「キミコ、以外と似合うね…… メガネっ子ツインテールだね」
 スマフォを取り出して、サッと撮られた。
 自分でも撮ってみたが、違和感バリバリで似合うとは思えなかった。
 メガネを戻すと、もうダンボールに荷物は無かった。
「結局これだけってこと?」
 コンッとドアの音がした。
「(ヤバイッ!)」
 私は小さい声でそう言うと、マミを押して扉に向かわせた。
 順番を思い出しながら、ベッドの上に並べた荷物をダンボールに詰めていく。
「ミハル? なの?」
「……ただいま。開けていい」
 マミが慌ててドアノブを握る。
「ちょっと待って、ちょっと取り込み中なんだ」
「ちょっとってどれくらい」
「ちょっとだから」
 取り出したものは大した量ではない。
 あと少し、服をちゃんと並べればそれでおしまい。
 ガチャッと、無理やり扉を開けようとする音がした。
「開けてよ」
「ちょっと取り込み中なんだって」
「取り込み中って何?」
 もう少しだから……
 終わった! 私はダンボールのフタをもとの通りの順番に閉じて、元の位置に押し戻した。
 マミが限界のようだった。
「(キミコ、取り込み中って何って言おう)」
「(終わったから開けていいよ)」
「(取り込み中はどう説明するの?)」
「(いいよ、そういうのは)」
「(まずいよ、ミハルはそういうところ気にするよ)」
「(じゃあこうしよう)」
「取り込み…… 終わった?」
「んっ……」
 ガチャリ、と音がしてミハルが入ってきた。
 ミハルがこっちをじっとみてから言った。
「取り込み中?」
 見られることが目的だったが、冷静な感じで見つめられると、ものすごく恥ずかしく感じた。
 取り込み中…… を表現する為よ……
「舌?」
 ああ…… そうね。こんなに気持ちいいなんて。
「それ…… よだれ?」
「んっ!」
 マミが肩を押してきた。
 私とマミはそっと唇を離した。
 まさか『取り込み中』であることを見せる為に、マミとの記念すべきファーストキスを使ってしまうとは思わなかった。
 しかしファーストにしてはガッツリディープだった。
 マミは慌てて手を振って否定するように言った。
「ミハル! これが取り込みチューっていう意味じゃないのよ?」
「……」
 全く無反応だった。
 気が付くと、ミハルは部屋の奥の自分のエリアにいた。
 私は確認したいことがある。
 ミハルが私の視線に気がついて、じっとこちらを見返した。
「?」

「事務局の人、どなり込んできますよ」
「けど、仕事をしない事務局が悪いじゃない」
「坂井先生。事務局の人が来たら私が困ります」
「……」
 私が線を外したのだから自分が怒鳴られるのならいいが、杏美ちゃんが事務局から叱られたり、苦労するのでは本末転倒だ。
「電話はつなぎましょう。けど、亜美ちゃんは今日は帰っていいわ。私がやるから」
 のらりくらりと受けていればなんとかなるだろう。
 その時はそういう気持ちだった。
「いいんですか?」
「もう数日この調子でしょう? いいのよ」
 少し杏美ちゃんの表情に生気が戻ってきたようだった。
「事務局の人が怒鳴りこんで来る前に、早く帰った方がいいわ」
 繋いだとたんに電話がなった。
 私は電話の対応を始めると、慌てて荷物をまとめ、研究室を出いていく杏美ちゃんを見送ることもできなかった。
 細かい時間取りをしてくる会社や、ざっくりと時間を抑えてくるところ。
 電話に出ているのが私だと分かると、そのまま声を録音したい、といってくるメディア。
 他の研究室の回線も使えなくなり、直接部屋にきたり、電話で文句を言ってくる所員。
 そうやっている間に、約束していた他社のインタビューやら写真撮りがはいる。
 昼ごはんどころか、ロクに水も口に出来ない状況だった。
 所内をあちこち動き周り、研究室に戻れば電話を受けていた。
 現実の光景に、ソースコードが…… あの見知らぬ言語の…… スクリプトがオーバーレイしたように重ねて見え始めた。
「坂井先生、口紅直したほうが」
 女の子が、気づかってくれたようで、私は少し化粧室へ逃げ込むことができた。
 鏡で自分の顔を見ているのに、そこに文字が重なって表示されている。
「また、あのコード。水晶の動作」
 鏡をみたまま、バッグから口紅を取り出そうとすると、手に入れた覚えのない四角いものが触れた。
 ツルツルに磨き上げられたガラス?
 スマフォか、と思ったが、スマフォなら左のポケットに入っている。それに表も裏も同じ感触で、その点がスマフォとは違った。
「?」
 取り出してみると、本当に透明なガラス板だった。
「それとも、水晶かしら?」
 取材やらテレビ番組の収録やらで、いただきものも沢山あった。
 覚えていないが、もらったのかもしれない、と考えてバッグにしまった。
「ふー」
 気持ちを入れ替えようと、肩の力を抜いて息を吐いた。
 目的の口紅を出して、手にとって塗り直す。
 そうはいっても細かく直す時間はない。
 ティッシュではみ出たところを拭って、バッグを整理した。
 さっきのガラス板が光ったような気がして、取り出した。
 ガラス板に文字が映っている。
 頭の中に浮かぶ文字と同じ。発音方法は知らないが、意味が分かる。
 そして、今見ているのが表なのか裏なのかも。
 トントン、と化粧室の扉が叩かれた。
「メディアの方が早く来てくれと」
「今行くから……」
 苦しい…… なんだろう。
 記憶の片隅にあるのと同じ苦しさ。
「先生?」
 扉ごしに声が聞こえる。
 目の前が白くなって、前が見えない。
 スクリプトが高速でスクロールしていく。
『読め』
 今? この状態で?
 私は立っていられなくなった。
「坂井先生?」
 急にはっきりした声が聞こえる。
 何か返事をしないと、苦しい、私、苦しいんだけれど……
 声が出ない。
『読め』
 あなたは誰?
 ……苦しい。
「先生?」
「どうしたの?」
「救急車、救急車呼んで!」
「何? 坂井先生?」
「早く救急車!」

↑このページのトップヘ