そんなふうに、フラフラになりながら家につくと、ようやくソースコードが目の中から消え去った。
 少しよそ行きな服に着替え、メイクも丁寧にしてから、今度は研究所の近くの店へ向かった。実験の打ち上げがある店だ。
 私が店につく頃には、辺りは暗くなっていて、店の看板があちこちで光っていた。
 研究所とは反対側の出口に回ると、ちょうど何人か所員や学生に出会った。
「坂井先生。実験お疲れ様でした」
「お疲れ様。本当にありがとう」
 店に入ると、上条くんが近づいてきて、席に案内してくれた。本来そういうことは幹事をやっている彼の後輩がやることなのだろう。抜け目がないと言うべきか、細やかな気遣いが出来る人だ。私が男であれば『妻』にするならこの上条くんのような人、と思うだろう。
 仕切られた部屋の奥に座ると、皆の顔が良くみえた。席の取り合いに駆け引きがあるのか、徐々に埋まっていくがまだ何か緊張のようなものがある。
 そうやってしばらくすると、席が全て埋まった。正確には埋まっていなかったが、毎度ののこと、として打ち上げを始めることになる。
 上条くんが声を上げた。
「乾杯」
 最初の一口を飲んで、打ち上げが始まると、たまにある飲み会のように、近況を話したり、他愛のない会話でいきなり賑やかになった。
 近くの数人が、今日、中島所長も来るような話をしている。
「上条くん、本当?」
「中島所長がいらっしゃること、ですか?」
 私はうなずいた。
「佐藤も聞いていないみたいなんですよね。私ももちろん聞いてません」
「そう」
 少し複雑な気持ちだった。
 昨日のままの自分だったら完全に中島所長を拒否していただろう。けれど、今の自分は。
「?」
 急に打ち上げの喧騒が収まった。
 すぐにその原因が分かった。
 XS証券の林が入ってきたのだ。
 研究室の連中は誰も顔を知らない。私も昨日会っただけで、しっかり覚えているわけではないが、忘れるほど遠い過去のことではない。
 私は、林が自分のところに来る前に、この部屋から出てもらおうと立ち上がった。
「ここじゃなんなので、そっちに」
「そんなに時間はない」
「ですから、この場所じゃこまります」
 変な視線が向けられている。
 男女の仲になった男は居なかったが、周りの声から、そんな風に思われているようだった。
「中島所長から坂井先生の研究所を建てると言われた。その方法でも構わない。とにかくうちに独占的に使用権があれば……」
 研究所を建てる、私の為に?
「回答の期限までには必ず回答します。お願いですから待ってください」
「早くしないと別の会社が先回りしてくる。決断してください。すばらしい性能も、早く製品化してこそ輝くというものだ」
「ビジネスにスピードが必要なことは分かりますが、今日はお引き取りください」
「もし早められる機会があるとしたら今日でしたが…… わかりました」
「林様から頂いた内容をチェックしました。懸念点、疑問を問い合わせています」
「ああ、さっきのメールか。それならもうとっくに返信したよ。だからここに来たんだ」
「えっ、ああ、すみません。まだメールの確認が出来ていませんでした。それと、坂井先生への確認が必要ですので、まだ契約の話しは出来ません」
 林の表情が急に変わった。
「……わかりました。明後日、研究所に伺います」
 そう言うと頭を下げ、すぐに部屋を出ていった。
 あっという間だった。
「坂井先生。メールの件伝え忘れていてすみません。こんなに早く返信されてるとは思わなくて」
「ええ…… 大丈夫。上条くんは間違ってないから。向こうのスピードが想定より早いだけよ」
 もう答えは出ていた。
 私にはお金が必要だった。
 少なくとも、今のまま研究を続けているだけではダメなことは確かだった。
「いえ、もう少しまって返信すればよかったんです。返信せずに握っていた方が時間のコントロールが出来たのに」
「だから、普通の相手じゃなかっただけよ。先に疑問点の回答がそんなに早くくるとは思わないもの」
「……」
「ちょっと明日、お休みのところ悪いけど、時々メール見ててもらえないかな。この調子だと研究所で打ち合わせる時間がないかも」
「ええ。お昼前後なら見れますから、そこらあたりで良いですか」
「わかったわ。今日のメールチェックもだけど、休日出勤扱いにして、作業時間を請求してね」
「わかりました」
「……なんかダメね。気分切り替えましょうか」
「ゴメン、皆! もう一回乾杯しようか?」