「事務局の人、どなり込んできますよ」
「けど、仕事をしない事務局が悪いじゃない」
「坂井先生。事務局の人が来たら私が困ります」
「……」
 私が線を外したのだから自分が怒鳴られるのならいいが、杏美ちゃんが事務局から叱られたり、苦労するのでは本末転倒だ。
「電話はつなぎましょう。けど、亜美ちゃんは今日は帰っていいわ。私がやるから」
 のらりくらりと受けていればなんとかなるだろう。
 その時はそういう気持ちだった。
「いいんですか?」
「もう数日この調子でしょう? いいのよ」
 少し杏美ちゃんの表情に生気が戻ってきたようだった。
「事務局の人が怒鳴りこんで来る前に、早く帰った方がいいわ」
 繋いだとたんに電話がなった。
 私は電話の対応を始めると、慌てて荷物をまとめ、研究室を出いていく杏美ちゃんを見送ることもできなかった。
 細かい時間取りをしてくる会社や、ざっくりと時間を抑えてくるところ。
 電話に出ているのが私だと分かると、そのまま声を録音したい、といってくるメディア。
 他の研究室の回線も使えなくなり、直接部屋にきたり、電話で文句を言ってくる所員。
 そうやっている間に、約束していた他社のインタビューやら写真撮りがはいる。
 昼ごはんどころか、ロクに水も口に出来ない状況だった。
 所内をあちこち動き周り、研究室に戻れば電話を受けていた。
 現実の光景に、ソースコードが…… あの見知らぬ言語の…… スクリプトがオーバーレイしたように重ねて見え始めた。
「坂井先生、口紅直したほうが」
 女の子が、気づかってくれたようで、私は少し化粧室へ逃げ込むことができた。
 鏡で自分の顔を見ているのに、そこに文字が重なって表示されている。
「また、あのコード。水晶の動作」
 鏡をみたまま、バッグから口紅を取り出そうとすると、手に入れた覚えのない四角いものが触れた。
 ツルツルに磨き上げられたガラス?
 スマフォか、と思ったが、スマフォなら左のポケットに入っている。それに表も裏も同じ感触で、その点がスマフォとは違った。
「?」
 取り出してみると、本当に透明なガラス板だった。
「それとも、水晶かしら?」
 取材やらテレビ番組の収録やらで、いただきものも沢山あった。
 覚えていないが、もらったのかもしれない、と考えてバッグにしまった。
「ふー」
 気持ちを入れ替えようと、肩の力を抜いて息を吐いた。
 目的の口紅を出して、手にとって塗り直す。
 そうはいっても細かく直す時間はない。
 ティッシュではみ出たところを拭って、バッグを整理した。
 さっきのガラス板が光ったような気がして、取り出した。
 ガラス板に文字が映っている。
 頭の中に浮かぶ文字と同じ。発音方法は知らないが、意味が分かる。
 そして、今見ているのが表なのか裏なのかも。
 トントン、と化粧室の扉が叩かれた。
「メディアの方が早く来てくれと」
「今行くから……」
 苦しい…… なんだろう。
 記憶の片隅にあるのと同じ苦しさ。
「先生?」
 扉ごしに声が聞こえる。
 目の前が白くなって、前が見えない。
 スクリプトが高速でスクロールしていく。
『読め』
 今? この状態で?
 私は立っていられなくなった。
「坂井先生?」
 急にはっきりした声が聞こえる。
 何か返事をしないと、苦しい、私、苦しいんだけれど……
 声が出ない。
『読め』
 あなたは誰?
 ……苦しい。
「先生?」
「どうしたの?」
「救急車、救急車呼んで!」
「何? 坂井先生?」
「早く救急車!」