なんだろう、今までの杏美ちゃんもずっとこの気持ちを隠していたのだろうか。
「坂井先生、行かないでください。ここで見ていてください」
 そ、それだけ?
 何かもっと重大なお願いをされるか、、重要な告白をされるのだと思っていた。
 それが、ここで見ていて、だけ……
 私は静かに座り直した。
 杏美ちゃんも、引き止めた恋人をほったらかすように、パソコンに向かってコードの見直しを始めた。
 しばらくすると、杏美ちゃんが口を開いた。
「ここの判定文はこれでいいんでしょうか?」
「ちょっと見せて」
 何もロマンティックではない。
 恋愛要素のかけらもない。
 あの引き止め方と結びつかない。
 私は余計なことが気になって判断文の条件を冷静に見直せなくなっていた。
 少しキーボードを借りて、前後を確認している振りをしていると、冷静さが戻ってきた。
「これね。この変数の意味が合っていればOKなんだけど、この行の処理が違うのよ。だからこの判定文でおかしくなるの」
「あっ……」
 本当に気がついていないのだろう。
 プログラムを書く時と、読む時では見ているポイントが違う。やっぱり冷静になって読み直せるかが重要だ。
「少し休むわね。戻ってくるから」
「は、はい」
 給湯室でコーヒーを入れ、自分の研究室の椅子に深く座った。
 私は抱きつかれて頭がおかしくなっている。
 コードを見る為だけではなく、自分自信を冷静に見直さないと行けない気がしていた。杏美ちゃんの行動には何か理由があるような気がするからだ。
 XS証券の林に何か言われた?
 中島所長に何か指図を……
 上条くんと何かあった?
 どれもマトモな答えとは言えない。
 組み合わせても全く理由にならないものばかりだった。
 人を好きになるのは突然ということはありえる。好きか嫌いか、で、嫌いから好きになったりもする。けれど何でもないところから、突然好きになるのだろうか。好きに変わる前に、予兆はあるのではないだろうか。
 私は杏美ちゃんが何かサインを出していなかったか、もしくは今の杏美ちゃんから本当はどう思っているのか、を引き出したかった。
 過去の言動を思い出しても、私に気があるとか、女性が好きだ、という印象は全くない。
 二人きりになったから、抑えられていた感情が爆発した?
 研究の途中、何度か夜遅い時間に二人きりになったことがある。なぜその時にはときめくような出来事がなかったのだ。
 いや、単にこの若いぴかぴかした娘の気持ちを、私が素直に受け入れられないだけなのではないか、と思い始めた。
 素直に受け止められないのも無理はない。
 年の差があるし、立場も違う。
 これが逆に、私が一方的に杏美ちゃんを好きになったと言うなら合点がいく。私は立場を利用して杏美ちゃんと二人きりになれるし、体に触れたい場合に、立場の違いを使って強制出来るだろう。それが正しい解決方法かは別として。
 とにかく、杏美ちゃんが私を好きなのだとして、私がそれを受け入れれば、外で会った時に感じた、きらきら、つるつるしている、この若い娘と、一緒に食事にでかけたり、若い肌を飽きるほど眺めてみたり出来るのだ。
 少し考えても杏美ちゃんを嫌う理由はなかった。
 好きになる理由はやまほどあった。
 ただ、気持ちが納得できなかった。
『読んではいけない』
 私は例の女性の幻だと思って立ち上がった。
 しかし、どこにも何も見えてこない。
『あなたは死んでしまう。決して読んではいけない』
 気配がある。見えないが、確実にいる気配があった。
 これは、幻のような女性とは異なる感覚だった。
「読め、と言っていた|女性(ひと)とは違うの?」
 私は声に出してそう言った。
 どうすればその気配だけの人物に伝えることができるのか、分からなかったからだ。
『読んでしまえば、あなたは体を失う』
 体を失う、だって? さっきの死、と同じ意味だろうか。体を失う、つまり、死んでしまうから、読んではいけないのだ。
「アレは何なの? 何が書いてあるの?」
『水晶…… 水晶のコード』
 そう。
 あの女性も同じことを言っていた。
 水晶の動作コード。
 世界を記述したコードがある、と言っていた。