研究の時に自分の言葉が傷つけているように、真実をそのまま話すと誰かが傷ついてしまう。
「そんなことを話さなくても抗議できます」
 中島所長は何か別の手段で戦おうとしている。
 それは私には出来ないことだ。
「もう帰ります。研究もしばらく休みます」
「えっ、何言っているの? 水晶の研究棟なのよ、あなたの為の水晶の塔……」
 中島所長が私の肩をつかみかけたが、それをかわすようにして、振り返らず、走った。
 逃げたかった。
 一人になりたかった。
 心地よいベッドで、すべてのことを忘れ去りたかった。
 家に戻ると、灯りもつけずそのままベッドにもぐった。
 足元の小さいモニターで杏美ちゃんがインタビューされる様子が頭によみがえる。何であんなことをしたのか。杏美ちゃんは一言も同性愛者、だなんて言ってない。
 それなのに、まるで昔から好き合っていたような気になって…… 罠だったのに。
 何度も何度も後悔を繰り返し、考え疲れてきた。
 ベッドの中で体を丸めているうち、ようやく何か落ちつくと、そのまま眠ってしまった。



 見知らぬプログラムのソースコードが目の前の壁に映し出されていた。
 私が注目すると合わせるようにスクロールされていった。手も動かないのに、単語の検索が実行され、目的の語がハイライトされる。
 なんだろう、と思いながら、自分の考えを変えてみる。
 見たこともない言語のはずなのに、関数を宣言するキーワードを知っている。
 条件分岐する記述のしかたも、繰り返しも。
 コメント行にかかれている不思議な文字すら、何が書いてあるのかが読める。
『また、あの世界なのかしら』
 壁の周りに注目していくと、壁を中心に長机と椅子が取り囲んでいた。どうやら講堂のようだ。
 後ろから声がした。
『どう、女王になる気になった?』
 振り返ると、長い髪の女性が立っていた。
 再三、私に『読め』と言い続けていた女性だ。
 美しい顔立ちと、胸元の宝石を憶えている。
『このコードはなんですか?』
『あら? あなたには読めたでしょう? あるオブジェクトを記述したものよ』
『確かに、”リンゴ”の記述がされています。遺伝子のデータへのリンクもされていて。何か壮大なシミュレータなんでしょうか?』
 ふと、この女性と普通に会話出来ていることに疑問を持った。
 耳に入ってくる音は、とても言葉とは思えないような、歌でもない、念仏のような音に聞こえている。
『ちょっと待ってください』
 自分の話した声も、まるで念仏のような音だった。なぜそれがこの口と喉で発声出来ているのか答えはでなかった。
『シミュレータ、というのは確かに間違えではなないかもしれないわ。けれど、私がこれをシミュレータ、と答えたらあなたはどう思うのかしら?』
『どういう意味ですか?』
 通路を下りながら、正面の壁を見るように手を伸ばした。
『ほら、これを見て』
 映し出されているコードが切り替わった。
 先頭にカーソルがあたり、このオブジェクトは、いくつものファイルから構成されていることが示された。
『遺伝子構造のタイトルはこれ』
『に、人間?』
『インスタンスのリストを見ることも出来るわ』
 妙な記号で作られたIDとペアになって人名がリストされた。
『!』
 私の名前だ。
『そう。これはあなたよ。こちらにくれば、このインスタンスは削除される。世界を移動してしまう、ということね。あらゆるしがらみから逃れられるのよ』
 どういうことか分からなかった。
 これは夢に違いない、とも思った。
 夢でないとしたら、自分が世界シミュレータの中のインスタンスの一つである、ということを受け入れることはできなかった。
『ちょっと待って! これを見せてください』
 純粋な興味だけが動機だった。
 夢でもこんなに面白いことはない、と感じていた。
『みてもいいけど、このままでは改変出来ないわよ』
『ええ、それは構いません』
『改変するなら……』
 私は女性のことばを遮った。
『まず見せてください!』
 とにかくなにが起こるのか、どんなことになっているのかを確かめたい。
 夢なのだとしたら、自分は自分に対し、どんな想像をしているのだろう、とも思った。
 最初のように思考することで壁に映るコードをスクロールしたり、ファイルを開いたり、検索したり、ジャンプしたり、自由にコードを動き回ることが出来た。