『読む気になったのね』
 女性の姿は見えなかったが、ハッキリと声が聞こえた。まるで後ろに立っているかのようだった。
「そうよ。読むからにはコード管理プログラムに干渉されたくない」
『……仕掛けは分からない』
「昨日の講義室に連れて行って」
『講義室?』
「壁にコードを映し出していたあの部屋よ。思った通りに動くエディタも」
『わかった。連れて行く。目を閉じて気持ちを楽にして』
 目を閉じると、女性の姿がそこにあった。
「名前。名前があった方がいいわ」
『なんのこと?』
「あなたの名前を聞いていなかった」
『なんでもいいわ。そうね、トモヨでいいわ』
「私と区別がつかないじゃない」
 いや、明確についているのだ。私は私だからだ。
『どのみちあなたの世界では発音できない。あなたをこちらに救いだしたら、女王は交代しなければならない。私とあなたが同時に存在するのは、この中だけなのよ』
 そうか、この|女性(ひと)は女王なのだ。
 女王、と呼べばいい。
「女王、と呼んでいいかしら」
『当然、それでも良いわよ』
 女王は歩き始めた。
 何もない廊下を歩いている気がした。
 壁もないのに、廊下だというのは、なんとなくの感覚でしかない。全く認識出来ない、壁のようなところから、いきなりドアが開く。
『ここよ。ここから入って』
 昨晩見た講義室のような部屋に入った。階段をずっと下りていくと、大きな壁にコードが表示された。
「私をこの世界から取り出す時って、最上位の特権を取るのよね?」
 私は後ろにいる女王を振り返って言った。
『そうよ』
「その特権って、いつ取れるの?」
『あなたがコードを読んだ瞬間』
「今の時点で、コード管理プログラムにコードを追加出来る?」
『出来ないわ。やるとしたら、特権をとったと同時にやるしかない』
 そうか、やっぱりそうなるのか。
 私はふと、さっき女王が言ったことを思い出した。
「そういえば、この中でしか私と女王が存在出来ないって言ったでしょ?」
『……』
 女王はうつむいただけだった。
「それって、あなたが、こちら側から居なくなる、ということではないの? あるいは……」
『……』
 うつむいた顔から目だけがこちらを向いた。
「あるいは、私と入れ替わりになる」
 私が見つめ返すと、女王は目をそらした。
「そうなのね? 私と入れ替わるつもりなの? この世界に入りたい為に、入れ替わるターゲットを探していたというわけ?」
 私はどのみちそう長くなく死んでしまう。
 女王が入れ替わるといっても私と同じものではないから、この同じ病気をもったままではない。コードを読んだ混乱に乗じて、特権をとって、私を取り除くと同時に女王がこの世界の中に入るのだ。
『結果としてそうするだけ』
「こっちの世界は、さっきの廊下のように何もない、孤独な空間なんだわ。世界のシミュレータの裏側。フレームワークとでもいうか。そんな世界なのね?」
 女王は首を振った。
『それはひどい誤解ね』
 女王が何かスレートに文字をなぞった。
 講義室の入り口が開いて、黒服の老人がおじぎした。
『どこへお連れしましょう』
『世界が広いことが分かるところがいいわね。空から領土を見渡して』
『承知しました』
 老人がこちらにやってくると、かしずいてから私の手をとった。
『参りましょう。ご案内いたします』
『あなたのからだはこの世界のものではないから、ものに触れたり、触ることはできないわ。けれど、こちらの世界にきたらちゃんと実在するものなの。あとは信じてもらうしかないけど』
 私は女王を振り返り、うなずいた。
 老人が開けた扉の先に床が見えなかった。私はあっ、と思った時には落下していた。強い風に目を閉じていると、抱きとめられた。
「お、落ちているの?」
 老人の細い腕から降ろされた。
『もう落ちるのは終わりました。落ちているように感じるのは、ここはドラゴンの背中で、飛行中だからです』
「ドラゴン?」