その時あなたは

趣味で書いている小説をアップする予定です。

カテゴリ: 水晶のコード

 私は時折、頭のなかにスクリプト※が浮かぶ。
 小さい頃は、それが何なのか分からなかった。
 自国語は英語ではないのに、変数や命令文はすべて英語で浮かんだ。
 まだ、誰にも言ったことはない。
 頭に思い浮かぶままをコンピュータに入れたこともある。不思議なことにそのスクリプトはバグもなく動いてしまうのだ。
 自分の中で作り上げられたものなのか、それとも本当にどこかから降ってきているのか…… それは分からない。
 大学の頃…… といってもまだ大学の研究所にいるのだから、大学生の頃というべきだ。大学の学生だった時、この世のどこにもないスクリプトが頭に現れた時に、そのスクリプトが動くシステムを組んでみたこともあった。
 私は化粧室で顔を洗ってハンドタオルで顔を拭っていた。
 今日もやたら長いスクリプトが頭に浮かぶ。
「先生ここでしたか」
「杏美(あみ)ちゃん、何かあったの?」
「実験の準備が出来ました」
「分かったわ。すぐ行きます」
 廊下を歩きながら、見下ろしているようような何千行、何万行と長く、かつ、何列にもなっているスクリプトが意識の中を流れていく。
 それは今回の実験で実際に使うものだった。
 立ち止まって目を閉じる。左下隅にあるコードが、赤く点滅している。実際に点滅しているのではない。全体を眺めていると、違和感があるのだ。
 実験室に入ると、上条くんが近寄ってきた。
「坂井(さかい)先生。実験の準備が出来ました」(坂井知世(さかいともよ))
 さっきの違和感を確かめないと、このまま実験を始めるわけにはいかない。
 共同の居室の為、今月内で一定の成果を上げなければならない。というか、予算も期待もかけられてない私の研究が、学内で別の場所を与えられるとは思えない。
 残りの数日が勝負なのだ。
 私は実験機器が並ぶ部屋を眺めた。
 測定機からのケーブルが束になってアイ・オーボードに入っている。それをコンピュータで瞬時に画像化して見れるようになっている。
 違和感のあるスクリプトが動いているのは、確か……
「今日は、何倍に設定しますか?」
「……」
「計画通り実施しますか?」
 違和感があるまま実行したら後悔する。
 一度初めてしまえば、再度準備を整えてスタートするのにまた何時間かかかってしまう。これ以上生徒を拘束することは出来ないだろう。
「ちょっとまって」
「えっ?」
 私は目をつぶって、違和感のあるスクリプトを確認した。
「測定する部分のプログラムは大丈夫? Dパートの測定機で動かすスクリプトを表示させて」
「オンラインできているものではないので、向こうに行かないとダメですね」
「分かったわ。ちょっと行ってきます」
 ケーブルの束が分岐して伸びている左の先に向かった。上条くんもタブレットを胸に抱えながらついてくる。
「担当者はいる?」
 上条くんがタブレットを確認している。
「水谷さん? ちょっとこの測定機のプログラム出して」
 私はヤニ臭い、と思いながらその水谷の頭ごしに測定機のプログラムを目で追った。
 頭の中で考えていたののと、同じ違和感。
「ここの分岐、ここの分岐の条件をちゃんと説明して。この式で判定出来る?」
「……出来ますよ」
「違うな…… 上条くん、変数の意味をもう一度正確に追って。比較演算子逆じゃない?」
「えっ……」
 水谷はムッとした顔でこちらを振り向き、上条くんは慌ててコードの前後を追いかけ始めた。
「上条くんと一緒に見て、間違っているなら直して、本当に大丈夫だったら実験を始めます」
 ああ、こういうキツイ言い方をしなくてもいいのに。自分でも思うことはある。
 けれど、余計な気遣いの言葉を言っていると時間が無駄になってしまう。
 今は時間がないのだ。
 私はそのまま実験室を戻り、もといたコンピュータの前に戻った。
「杏美ちゃん、そっちの箇所は大丈夫そう?」
「温度も安定してますし、計測には問題ありません」
「そう良かった」
「先生、上条くんが……」
 私はタブレットに目をやった。
『おっしゃられた通りでした。比較を逆にするだけですので、すぐ終わります』
 と書かれていた。
「杏美ちゃん、了解」
 私は椅子に座り、急いでタブレットで打ち返した。
『いそがないでいいから、本当に逆が正しいか、処理内容も合わせて確認のこと』
『承知しました』
 


※ スクリプト:ここではコンピュータ・プログラムのソースコードの意味 

 私はタブレットのケースを閉じて、目を閉じた。
 今回のスクリプトが全て頭に見えてくる。
 違和感があったところが修正されていく…… これでコードの懸念点はなくなった。
「坂井先生」
「!」
 椅子を回して振り返ると、そこには杏美ちゃんの姿はなかった。立っていたのは、中島所長の姿だった。
 私はタブレットを机に放り出して、慌てて立ち上がった。
 こちらを見ると、ニッコリと微笑みながら近づいてきた。
「|知世(ともよ)、実験の進みはどう?」
「中島所長。いらっしゃいませ。実験はまだ確認事項が少しあって」
「所長ってのはやめてよ。いつもは梓(あずさ)って呼び捨てにするくせに」
 確かに呼び捨てにしていたが、それは中島所長が呼び捨てにしてくれ、というから|無理にそうしていた(・・・・・・・・・)だけだった。何故名前で呼び合いたいのか、私には理解出来なかった。
 私と所長は、ふたまわりほど年齢が離れていて、中島所長の方は長年の実績を買われて、この研究所『初』の女性所長になっている。三年間も同じ研究を続け、未だにまったく成果の出ない私とは比べようもない。
「所内ですし」
 所長は諦めたような顔をした。
「実験はいけそうなの?」
「もう少しで開始出来ます。最後の確認事項ももうすぐクリアになるところです」
「そう。がんばってね」
「は、はい」
 急に後ろにまわられて、両肩に手を置かれた。
「そんなに肩に力を入れてはだめ。リラックスして」
 所長はそのまま両肩を揉んできた。
 すこしくすぐったい。
 おじさんがするセクハラギリギリの行為に近かった。
「あ、あの、肩を揉むのは……」
「えっ、ああ、イヤだったかな。ごめんなさい。今言っていいかわからないけれど、この研究には期待しているのよ」
「……」
 私には、それがお世辞なのか、嫌味なのか分からなかった。
「この実験。ある企業から共同で研究したい、という申し出があったの」
「えっ?」
 私の表情を見てか、所長は何か考えたようだった。
「やっぱり終わってから話すわね。今は実験に集中して」
 所長は背中を向けて扉に向かい、カードを取り出すと、さよなら、という感じにそのカードを振った。同時に、その手からエメラルドのリングがチラっと光った。
「しっかりね」
 そのカードを実験室の扉に設置したカードリーダーに開けると、自動ドアが開いた。
「坂井先生」
 今度は杏美ちゃんの声だった。
「上条さんの確認終わったとのことです」
 タブレットを開いて、メッセージを確認した。
『上条くん。戻ってきて』
 書いている間に、上条くんが戻ってきた。
 上条くんは私のタブレットをちらっと覗きこんだ。
「もう戻ってますよ。さあ、どうしましょう。念の為、100倍からやりますか?」
「計画通りで行きましょう」
 私はさらに続けた。
「計画通りに、最初に200倍。安定したら250、275、300倍まで試しましょう」
「分かりました」
 上条くんがそう言うと、装置をスタートさせる指示を出した。
「200倍から」
「……」
 何度かクリアしている実験ではあったが、今回の工夫によって、より安定的な動作が出来るはずだった。そして安定することで、300倍までの性能を発揮する…… はず、なのだ。
「坂井先生、周波数確認しました。非常に安定しています。前回の実験とは……」
「待って」
「はい」
 小刻みに上下する波動が画面に描かれていた。
 クロック数は現在の上限と思われているクロックの200倍。
 計測が間違えなければ、だが。
 このクロックを回路に流せば端で反射する。
 初期の実験装置ではこの端の反射が想定より大きいせいで、マトモな結果が見えなかったことを思い出す。
「もう一度、各値をチェックして。本当に200倍出ている?」
 論文に書いてから、別の研究室で追試され、ウソだの実験結果の捏造だの言われたくない。
「各自、担当分の再チェックねがいます」
 慌ただしく確認が目視チェックを始めた。
 メモ紙の上で軽く計算をし直す者もいた。
 遠隔地にはタブレットで、再チェックの指示を与えた。

 上条くんが真剣な眼差しで各員からの結果を集めて、私に向き直った。
「先生。全員で確認を行いました。問題なしです」
 私はうなずいた。
 上条くんがハイタッチをしようとして、私はそれに応えた。
「ありがとう」
 実験室内に拍手の音が響いた。
「まだ続きがあるよ、慎重に」
 上条くんがそう言った。
「そうね。もう少しだから、皆、頑張りましょう」
 椅子を戻して、実験に戻った。
 超高速のコンピュータ。
 超高速の光通信。
 端反射しない半導体回路。
 この実験はそういった技術のベースになる。
 私は言った。
「250倍へ」
 上条くんが指示する。
「クロック上げてください」
 画面表示の波形が更に細かくなる。
 細かくなった分、綺麗な波を描かず、少し歪みがかかる。
「!」
 ファイバの中に水晶構造が入っている。
 ガラスのファイバではなく、水晶ファイバというべきだ。
「こんなに歪みが……」
「大丈夫です。想定よりは少ないです」
「上条くん、想定ってどれくらい」
「あと1〜2%は歪むかな、と思っていました」
「1〜2%ですって? そんなに? もしかして、私の計算が間違っていた?」
 上条くんは首を振った。
「納品時にファイバをチェックした時に、注文よりも質が悪かったんです。もう時間的に間に合わなかったので」
「それ、早く言って」
「結果は変わらないと思ったもので」
「けど、出力は高めに設定したままなのよ? ファイバフューズが起こったら……」
「質が悪くてもファイバフューズが起こらないのが先生の理論です。もっと自信を持ってください」
 確かに、ケーブルの質が悪くとも、水晶構造が信号のガス抜きをしてくれる予定だった。端反射も同時に軽減し、ファイバフューズがなくなる、という想定だった。
 だから、質がわるくとも成功しないと、理論が間違っていることになってしまう。
 質を高めるとケーブルが高価になってしまい、長距離に使えない。長距離ほど高速な通信がひつようなのにも関わらず、だ。
「ま、まあ、そうなのだけれど」
「言わなかったことは申し訳ありません。けれど実験の結果には影響ありませんよ」
「……」
 もうこの実験の40〜50%は上条くんのものでもある。アイディアは私のものかもしれないが、メーカーへの発注から現実化する為の調整や打ち合わせの類は殆ど上条くんに任せてしまった。
 確かに結果としてうまく行けば問題ない。
 私は決断した。
「安定した計測ができたら、そのままの状態から275倍へ移行してください。ノイズとファイバの温度については目視でもしっかり監視して」
 口頭で指示が出来ない部署には、杏美ちゃんと上条くんがそれぞれタブレットで指示を出してくれた。
「坂井先生、275倍に達しました」
「やっぱり厳しいわね。けど、これなら……」
 上条くんはうなずいた。
 イケる。これなら目標の300倍でも全く問題ないだろう。
 これが終われば、所長に報告出来る。
 長年書き上げてきた水晶の論文が出来るのだ。
「せ、先生、ちょっと来てください」
「杏美ちゃん?」
 私は慌てて近寄ると、杏美ちゃんはタブレットの画面を指差した。
「これ計測器側の問題でしょうか?」
「……ちょっと見てきます」
「実験は……」
「そのまま監視を続けて。275倍をキープしてください」
 私はそう言うと、杏美の指摘した計測器へ走った。
 とりあえず計測器をリセットして……
 けれど、それで治らなければ?
 不安定な機器のリセットは、機器を壊してしまう可能性もあり、非常に不安だった。
「大丈夫ですよ。リセットしましょう」
「か、上条くん。勝手に持ち場を離れない」
「怖かったら、ボクがやりますから、戻っていてください」

 実際、機器に触れようとする自分の手が、震えているのに気づいていた。
 この状態でやったら何か悪いことが起こる、と思えた。
「……お願いするわ」
 何もかも見透かされているような気がした。
 頼りになる、という気持ち以上に、嫉妬のようなものが上条くんに対して沸き起こるのを感じた。
 しばらくすると上条くんが戻ってきた。
「坂井先生。正常化しました」
「続けましょう」
 皆がうなずくと、最終目標の300倍へ移行した。
「300倍です」
「……チェックして」
 杏美ちゃんがタブレットで画面を切り替え切り替えてチェックをしていく。
 上条くんも同じようにチェックし、各員の応答も同時に確認してくれた。
「OKです。先生」
「成功、ね」
「そうです」
 上条くんが微笑んだ。
 自分自身で画面を見れば分かる話なのに、上条くんの顔で結果を確信している自分が情けなかった。
「皆、ありがとう。実験は成功したわ。測定器の記録をローカル側にも保存しておいて。保存したらこっちに集まって」
 タブレットでも同じ指示が飛んだ。
 張っていた気持ちが緩んだせいなのか、涙が出てきた。
 全員の前で何を話したのか、もう覚えていなかった。
 拍手と笑顔で囲まれて、とても幸せな気分だった。
 普通の会社に就職したら、こんな体験はなかっただろう。同じように一つのことをやり遂げることはあっただろうけれど。
 皆が後片付けを終えて、一人、一人と帰っていった。
 私は座って背もたれに体を預け、少し眠りかかっていた。
「打ち上げ飲み会の日までに実験が終わってよかったですね」
 杏美ちゃんが、ポツリ、と言った。
「あっ、もう予約だけしてたんだっけ……」
「そうですよぉ。私、キャンセル料のこと考えて、ちょっとドキドキしてたんです」
「そんなことまで心配かけて、ごめんね」
 ピッとカードが操作される音がして、扉があいた。
「坂井先生、第一応接室にお客様がお待ちです」
「?」
 そう言って、上条くんが目の前に立ち止まった。
 何も予定はないはずだった。
 実験が終わるかどうかすら不明だったからだ。
「所長がどうとか、とにかく今会うことになっている、と……」
 なんだろう、と思ったが上条くんが通す、ということはそれなりの人物ということか、と思った。
 私は立ち上がると、杏美ちゃんが寄ってきた。
「先生、お顔を少し」
 タオルで軽く拭ってくれた。
 多分、涙の後が残っていたのか何かだろう。
「上条くん、少ししたら行くと伝えてください。後、上条くんも一緒に会ってくれる?」
「はい」
 化粧室でメイクを整えてから、私は第一応接室へ向かった。本当は、メイクを整えたというより、汚くなったところを拭ったにすぎなかった。
 部屋に入ると、上条くんがコーヒーを置いているところだった。
 来客は急に立ち上がって、名刺を突き付けるように出した。
「XS(エックスエス)証券の林です」
「はじめまして」
「坂井先生の研究、実にすばらしい。我々はこの研究を早く実用化したい」
「……」
 何もかもがいきなりだった。
 手に押し付けられた相手の名刺は、XS証券とは書いていなかった。XS外貨オンライン、確かにそう書いてある。
 取締役 林小太郎。
 この段階で、取締役が出向いてきている。
「ああ、すみません。社名は前のままなんです。私の名前も、会社の住所と連絡先も同じですから」
 いや、そういうことじゃない、と思った。
 その人の行動や名刺は信用をつくる上で重要な部分ではないのだろうか? すくなくともこの人はそうは思っていないようだ。
「座りませんか。早く話をしたい」
 またそんな話だ。
 この人は何を焦っているのだろうか。
 上条くんが椅子を引いてくれた。
「すみませんが、上条も同席していいでしょうか」
「……ええ、かまいません」

「上条くんも座って、一緒に聞いて」
「林です」
 上条くんにもポン、と名刺を渡した。
「ああ、XSビデオオンラインの会社ですか?」
 林の顔が一瞬、気味悪い感じに歪んだ。
「やっぱり男の子ですね」
「?」
「いいえ、そんなことは置いておいて。先生の研究している水晶のファイバー、新しい水晶振動子。そこら辺を、ごっそり、全部、実用化させたいんですよ。ほら、この前うちが子会社にしたMM電気通信株式会社。そこに作らせて」
 何を言っているのだろう。
 今さっき、実験レベルがクリアされたばかりだというのに。いや、実験レベルがクリアされたことを知っている、というのか。
「まだ、実験をしている段階で」
「いや、もう実験も終盤のはずでしょ?」
「何故」
「別に盗み聞いたり、不正に情報を集めたわけじゃない。信用してください。確実に製品化して、相応の報酬の支払いを約束します」
「だから、何を言っているんですか。私はまだ論文を」
「そんなのんきなことは言ってられないんですよ。先生のファイバーがあれば、世界を飲み込むことが出来る。ごっそり先回りして、世界中の株を、先物取引を、全部ね」
「?」
「何を言っているか、分からなくていいんです」
 さっきとは別の、もっと嫌な感じに口元が歪んだ。
「とにかく。実用化の権利を独占させてください」
「……」
「実用化しなければ、ただの論文で終わりです。実用化すれば…… 世界は変わる。本当ですよ。坂井先生。良い答えを待っています。契約書はここに入っています。それでは」
 林は立ち上がると、紙コップをヒョイっと持ち上げ、グイッと一口で飲み干した。
「3日後。ここに来ます。所長にも約束をとっています。それ以上は待てません」
 上条くんが慌てて先回りし、応接室の扉を開けた。
「あ、ここでいいですよ。それでは」
 私は立ち上がりもせずに、林を見送った。
 何の話をされたのか、もう一度整理していた。
 私の研究のうち、水晶構造を持ったファイバーと、超高周波水晶振動子に興味があるようだった。それを一社で実用化したい。独占使用をしたいということだ。
 正直、製品になった時のことなど考えていなかった。
「坂井先生。チャンスですよ」
「……チャンス?」
 よく分からない企業に、こちらの研究成果を渡すことが?
「文面は私がチェックします。先生に不利なことがあれば必ず知らせます」
「チャンスなのかしら?」
「論文はお金には直結しませんからね。理論的にはOKでも工業製品になるまで時間がかかれば、その間に代替の技術が出来ていたりして、お金には結びつかなかったりします」
「お金……」
 お金のことは考えていなかった。
 必要なもののお金は十分にあったが、父の死のことを思い出すと、この世の中で、お金の必要性は嫌というほど知っていた。
「そうですよ。XS(ここ)なら相当儲かっていると思います」
「そういば、上条くんはXSを知ってたみたいね」
「あっ、そうですね。はい」
 その時、応接室の扉が開いた。
「坂井先生。ちょっとお話し良いかしら?」
「所長」
 返事を待たずにそのまま林が座っていた席に座り込んだ。
 私は椅子を回してそちらに向き直った。
「良い話だと思うんだけど」
「待ってください。XSの話でしょうか?」
「製品化、工業化は必要よ。今回の研究は理論だけで終わるものじゃない。今回のことがまとまれば研究所や大学への寄付金についても考えていただけるそうよ」
 もうそんな話まで行っているのか。
 おかしい、そんなに回線速度が必要な企業があるのだろうか、いったいどんなデータをやり取りしているというのだ。
「回答は3日後ということに」
「知世(ともよ)ちゃんは考える必要はないわ。あ、念の為、法務の方に確認させるから、私でいいから契約書のコピーを送って」
 所長の問いかけに、上条くんが返事をした。
 上条くんがいる前なのに、私を『知世ちゃん』と呼んでしまっている。
「中島所長、何をそんなに焦っているんですか」
「……成果が欲しくないの?」

 所長は立ち上がった。
「知世ちゃん、自分の立場も考えて。もう何年もこのガラスと水晶の研究をしているのよ。成果もなしで」
 怒りが混じった表情だった。
 中島所長が、同じ研究室だった時のことが頭をよぎった。
 中島さんに、何度も何度も呼び出されて叱られて、何回も書き直し、何度も『紙』の書類を出しにいった。
 中の論旨がどうとかではない。
 ページが間違っている、レイアウトが悪い、図表が悪い…… 誤字脱字、表紙のフォントが違う……
「いい、考える余地はないの。契約上問題になる部分は、契約書の修正を要求すればいい。契約を前提とします」
「……はい」
 私には選択肢はない。
 最初からそう言えばいいのだ。
 私は立ち上がって、頭を下げた。
「坂井先生。それでは、よろしくお願いします」
 扉を開けて所長は出ていった。
「……なんか、もう急展開すぎますね」
「実験が終わったばかりなのに、ごめんなさいね。上条くん」
「いいんですよ」
「この話は、明日の打ち上げでは……」
「大丈夫、話したりしませんから」
 私はうなずくと、腕をテーブルにのせて、そこに頭をのせた。
「お疲れのようですね。私は研究室に戻りますが、応接室はまだ2〜3時間予約してありますから、ここに居ても大丈夫ですよ。」
「ありがとう。それじゃ私はここにいるから、何かあったら連絡して」
「はい」
 そう言うと上条くんは応接室を出ていった。
 この数時間で起こったことがよく理解できていなかった。
 考えてた通り、ファイバに水晶構造が入ると光りの集中が減り、ファイバヒューズ:光ファイバへ高出力をかけると、突然光球が進行方向と逆へ進行し、ファイバを壊してしまう現象の発生を抑えられる。
 これまでのケーブルよりは高価になるが、安定して高出力を使えるのだ。
 実際の実験はこの光ファイバーと、電子回路に使う水晶振動子の構造だった。
 電圧をかけると安定した周期で変形し、クロックを作れる水晶振動子だが、これを今までより簡単な構造で高クロックを取り出すようにしたものだった。
 今までやってきたガラスと水晶の研究で、ものになりそうなものはこれだけだった。
 その実験が上手く行き、いままで上限とされていたものの300倍もの性能が出せることが確認できた。
 何ヶ月かかけた実験が終了した、その数分後に、企業の取り締まり役が来てその権利を買いにきた。トントン拍子というには早すぎる。
 仕組まれている、と考えてもおかしくない。
 巻き戻って実験は果たして成功だったのか、というところまで疑いたくなる。
 私を騙す為に、皆が成功したように見せかけたのではないか、とすら思いはじめていた。
 私は壁に向かって、声にだしてみた。
「変な考えは、やめよう」
 何かある時は、こうやって壁とか天井に話し、自分に言い聞かせてきたのだ。
「実験は成功した。今日はそれだけを持って帰ろう」
 私は部屋に顔を出し、帰る前に研究所のシャワールームへ向かった。
 このまま電車に乗りたくなかったのだ。
 汗臭かっただろうし、シャツが肌についていた。簡単に言えば、着替えてから帰りたかった。
 シャワーを浴びていると、もう一人シャワーを浴びに入ってきたのがわかった。
 私は髪をすすいで、体をスポンジで洗い始めると、後から入ってきた人物が、真後ろから見ていることに気付いた。
「誰?」
「知世(ともよ)」
 そう聞こえると、いきなり後ろから抱きしめられた。
 過去にもこんなことがあった。
 私は目の前に回り込んだその手をとり、指についている指輪をみた。
 小さなエメラルドを一文字に並べたリング。
 ……中島所長だった。
「びっくりするじゃないですか」
「良かったわ。脅かすつもりだったし」
「充分驚きました。だから、そろそろ離してください」
「冷たいこと言うのね」
 私は所内での生き残りの為にしてしまった過去の事を後悔していた。
「冷たくないですよ。所長さんがこんなことしているところ見られたら、セクハラ問題になりますよ」
 所長の指が、私の乳房を求めるように体を這ってきた。
「知世(ともよ)が訴えるかしら?」
 先端をさぐりあてると、つまんで回した。
「あっ…… わ、私が…… 私が訴えなくても、回りから見ればどういうことかは明らかなのではないですか」
 もう一方の手が足の付け根の真ん中へ、するすると降りてくる。
 中島所長はそれと同時に、顔を私の耳元に近づけてきた。
「本当にイヤがっているの? 反応を見ていると、そうは思えないんだけど」

 私は録音された音声に突っ込みをいれた。
 検査をした。日頃の体調に不安はなかったのだが、その『至急』という言葉に引っかかってしまった。
 言い間違えだとは思うけれど、何故そんな間違いをするんだろう。
 聞いている患者がどれだけ不安になるか、考えたことはないのだろうか。
 それとも…… 本当に?
 明日は…… 明日は実験の予備日だった。今日実験は終わったから、明日は打ち上げだけだ。大学病院に行く時間はある。
 研究の行く末と、自分の体への不安。
「あっ、また……」
 不安をさらに掻き立てるように、頭の奥でソースコードが生成される。
 今日、私の頭に降って湧いたものは、まだ見たこともない文字によるスクリプト・コードだった。
 まるで現実の風景にオーバーレイして映し出されるように明確に、文字がつらなっていく。
 見たことのない文字なのに、なんの動作をするのか、なんの目的なのかがぼんやりと分かる。
 これは水晶の動作を記述したものだ。
「水晶の動作? ですって?」
 驚いてしまって、壁に向かって声を出してしまった。
 現実はすべて超巨大な電子計算機上のシミュレーションである、というウソのような話を思い出す。
『これは水晶動作のソースコード』
 聞き慣れない音が、|そう言っている(・・・・・・・)。
「誰?」
 居るわけがない。
 |音として聞いた(・・・・・・・)事自体が錯覚のようなものだ。コードと同じように、頭に直接入り込んでいるようだった。音は聞き慣れないものだが、|意味は分かる(・・・・・・)。
『読め』
「どういうこと?」
 居ないことは分かっている。私は自分に言い聞かせる為にそうつぶやいた。
『読め』
 この『水晶動作のソースコード』を読めということだ。
 この文字を、私は知らない。
 不思議なことに意味は分かるのだ。
 だが、これを『読む』ことは出来ない。
「出来ない」
『読め』
 ぼんやりと、そう言っている人物の影が見えそうだった。いつか見たことがある。何度か、おそらく夢の中で。
 その人物は何度も何度もそう言い続けた。
 私はコードを何度も頭の中で先頭から終わりまで何度も眺めたが『読む』ことはできなかった。動作とコードは完全に頭に思い描くことができた。
 神が現れ、神託を授かる、というのはこういうことなのだろうか。
 しかし、このスクリプトを記述して実行する環境などない。それこそ、このコードが動くのは『神の』コンピュータ上なのだろう。
「このスクリプトを実行する環境があるのかしら」
 そう思った頃、ようやく声の人物が消えた。
 私の中に現れたソースコードは、自分の心が生み出した光りや影なのだろう。今日見えたコードは、将来への不安から生み出された幻想。私はそう思うことにした。
 このベッドで寝てしまえば、もう明日だ。
 私は灯りを消して、眠りについた。


 実験打ち上げの飲み会に行くため、一度自宅で着替えよう。私は家に向かう電車に乗っていた。お金が必要だ。昨日までとは違う額のお金が。
『早期に手術が必要です。といってもそれを出来るのは……』
 まるでドラマね。
 私は電車の床を見つめながら笑ってしまった。
 施術を出来る医師は何人も居ず、その順番待ち。手術に掛かる金額は法外。
 向かいに座っている子供が私に向かって「へんなの」と言った。
 そのボクに『ここが病院でなくて良かったね。病院だったらお姉さんもっと変だったのよ』と言いたかった。何もないところを見て笑うくらいなんだ。私の身に起こっている事に比べれば、変でも何でもない。
「あっ……」
 また目の前の風景にコードがオーバーレイされ、加えて外の音が聞こえにくくなった。
 子供の顔の上に昨日の水晶動作のソースコードが流れるように表示された。
『読め』
 ダメ、ここは電車の中なんだから。
 私はこれが収まるのを耐えなければならなかった。今どこの駅を過ぎたとか、社内のアナウンスを必死に聞き逃さないように注意した。
 目を閉じれば見えるものが、そのコードだけになってしまう。
 出来る限り別の風景をみていないと……
 私は立ち上がって、ドアのそばに達、外の流れる風景をみた。横に流れていく風景に、重なって縦に流れるソースコードのせいで、車に酔ったように気持ちが悪くなってきた。
 何駅か過ぎた頃、繰り返し聞こえていた『読め』の声が聞こえなくなった。
 しかし、コードのある部分にアンダーラインが引かれた。この世界での水晶の性質を表す、重要な記述のようだった。私にはなぜその一連の部分に、急にアンダーラインが引かれたのかわからなかった。

 私は録音された音声に突っ込みをいれた。
 検査をした。日頃の体調に不安はなかったのだが、その『至急』という言葉に引っかかってしまった。
 言い間違えだとは思うけれど、何故そんな間違いをするんだろう。
 聞いている患者がどれだけ不安になるか、考えたことはないのだろうか。
 それとも…… 本当に?
 明日は…… 明日は実験の予備日だった。今日実験は終わったから、明日は打ち上げだけだ。大学病院に行く時間はある。
 研究の行く末と、自分の体への不安。
「あっ、また……」
 不安をさらに掻き立てるように、頭の奥でソースコードが生成される。
 今日、私の頭に降って湧いたものは、まだ見たこともない文字によるスクリプト・コードだった。
 まるで現実の風景にオーバーレイして映し出されるように明確に、文字がつらなっていく。
 見たことのない文字なのに、なんの動作をするのか、なんの目的なのかがぼんやりと分かる。
 これは水晶の動作を記述したものだ。
「水晶の動作? ですって?」
 驚いてしまって、壁に向かって声を出してしまった。
 現実はすべて超巨大な電子計算機上のシミュレーションである、というウソのような話を思い出す。
『これは水晶動作のソースコード』
 聞き慣れない音が、|そう言っている(・・・・・・・)。
「誰?」
 居るわけがない。
 |音として聞いた(・・・・・・・)事自体が錯覚のようなものだ。コードと同じように、頭に直接入り込んでいるようだった。音は聞き慣れないものだが、|意味は分かる(・・・・・・)。
『読め』
「どういうこと?」
 居ないことは分かっている。私は自分に言い聞かせる為にそうつぶやいた。
『読め』
 この『水晶動作のソースコード』を読めということだ。
 この文字を、私は知らない。
 不思議なことに意味は分かるのだ。
 だが、これを『読む』ことは出来ない。
「出来ない」
『読め』
 ぼんやりと、そう言っている人物の影が見えそうだった。いつか見たことがある。何度か、おそらく夢の中で。
 その人物は何度も何度もそう言い続けた。
 私はコードを何度も頭の中で先頭から終わりまで何度も眺めたが『読む』ことはできなかった。動作とコードは完全に頭に思い描くことができた。
 神が現れ、神託を授かる、というのはこういうことなのだろうか。
 しかし、このスクリプトを記述して実行する環境などない。それこそ、このコードが動くのは『神の』コンピュータ上なのだろう。
「このスクリプトを実行する環境があるのかしら」
 そう思った頃、ようやく声の人物が消えた。
 私の中に現れたソースコードは、自分の心が生み出した光りや影なのだろう。今日見えたコードは、将来への不安から生み出された幻想。私はそう思うことにした。
 このベッドで寝てしまえば、もう明日だ。
 私は灯りを消して、眠りについた。



 実験打ち上げの飲み会に行くため、一度自宅で着替えよう。私は家に向かう電車に乗っていた。お金が必要だ。昨日までとは違う額のお金が。
『早期に手術が必要です。といってもそれを出来るのは……』
 まるでドラマね。
 私は電車の床を見つめながら笑ってしまった。
 施術を出来る医師は何人も居ず、その順番待ち。手術に掛かる金額は法外。
 向かいに座っている子供が私に向かって「へんなの」と言った。
 そのボクに『ここが病院でなくて良かったね。病院だったらお姉さんもっと変だったのよ』と言いたかった。何もないところを見て笑うくらいなんだ。私の身に起こっている事に比べれば、変でも何でもない。
「あっ……」
 また目の前の風景にコードがオーバーレイされ、加えて外の音が聞こえにくくなった。
 子供の顔の上に昨日の水晶動作のソースコードが流れるように表示された。
『読め』
 ダメ、ここは電車の中なんだから。
 私はこれが収まるのを耐えなければならなかった。今どこの駅を過ぎたとか、社内のアナウンスを必死に聞き逃さないように注意した。
 目を閉じれば見えるものが、そのコードだけになってしまう。
 出来る限り別の風景をみていないと……
 私は立ち上がって、ドアのそばに達、外の流れる風景をみた。横に流れていく風景に、重なって縦に流れるソースコードのせいで、車に酔ったように気持ちが悪くなってきた。
 何駅か過ぎた頃、繰り返し聞こえていた『読め』の声が聞こえなくなった。
 しかし、コードのある部分にアンダーラインが引かれた。この世界での水晶の性質を表す、重要な記述のようだった。私にはなぜその一連の部分に、急にアンダーラインが引かれたのかわからなかった。

 そんなふうに、フラフラになりながら家につくと、ようやくソースコードが目の中から消え去った。
 少しよそ行きな服に着替え、メイクも丁寧にしてから、今度は研究所の近くの店へ向かった。実験の打ち上げがある店だ。
 私が店につく頃には、辺りは暗くなっていて、店の看板があちこちで光っていた。
 研究所とは反対側の出口に回ると、ちょうど何人か所員や学生に出会った。
「坂井先生。実験お疲れ様でした」
「お疲れ様。本当にありがとう」
 店に入ると、上条くんが近づいてきて、席に案内してくれた。本来そういうことは幹事をやっている彼の後輩がやることなのだろう。抜け目がないと言うべきか、細やかな気遣いが出来る人だ。私が男であれば『妻』にするならこの上条くんのような人、と思うだろう。
 仕切られた部屋の奥に座ると、皆の顔が良くみえた。席の取り合いに駆け引きがあるのか、徐々に埋まっていくがまだ何か緊張のようなものがある。
 そうやってしばらくすると、席が全て埋まった。正確には埋まっていなかったが、毎度ののこと、として打ち上げを始めることになる。
 上条くんが声を上げた。
「乾杯」
 最初の一口を飲んで、打ち上げが始まると、たまにある飲み会のように、近況を話したり、他愛のない会話でいきなり賑やかになった。
 近くの数人が、今日、中島所長も来るような話をしている。
「上条くん、本当?」
「中島所長がいらっしゃること、ですか?」
 私はうなずいた。
「佐藤も聞いていないみたいなんですよね。私ももちろん聞いてません」
「そう」
 少し複雑な気持ちだった。
 昨日のままの自分だったら完全に中島所長を拒否していただろう。けれど、今の自分は。
「?」
 急に打ち上げの喧騒が収まった。
 すぐにその原因が分かった。
 XS証券の林が入ってきたのだ。
 研究室の連中は誰も顔を知らない。私も昨日会っただけで、しっかり覚えているわけではないが、忘れるほど遠い過去のことではない。
 私は、林が自分のところに来る前に、この部屋から出てもらおうと立ち上がった。
「ここじゃなんなので、そっちに」
「そんなに時間はない」
「ですから、この場所じゃこまります」
 変な視線が向けられている。
 男女の仲になった男は居なかったが、周りの声から、そんな風に思われているようだった。
「中島所長から坂井先生の研究所を建てると言われた。その方法でも構わない。とにかくうちに独占的に使用権があれば……」
 研究所を建てる、私の為に?
「回答の期限までには必ず回答します。お願いですから待ってください」
「早くしないと別の会社が先回りしてくる。決断してください。すばらしい性能も、早く製品化してこそ輝くというものだ」
「ビジネスにスピードが必要なことは分かりますが、今日はお引き取りください」
「もし早められる機会があるとしたら今日でしたが…… わかりました」
「林様から頂いた内容をチェックしました。懸念点、疑問を問い合わせています」
「ああ、さっきのメールか。それならもうとっくに返信したよ。だからここに来たんだ」
「えっ、ああ、すみません。まだメールの確認が出来ていませんでした。それと、坂井先生への確認が必要ですので、まだ契約の話しは出来ません」
 林の表情が急に変わった。
「……わかりました。明後日、研究所に伺います」
 そう言うと頭を下げ、すぐに部屋を出ていった。
 あっという間だった。
「坂井先生。メールの件伝え忘れていてすみません。こんなに早く返信されてるとは思わなくて」
「ええ…… 大丈夫。上条くんは間違ってないから。向こうのスピードが想定より早いだけよ」
 もう答えは出ていた。
 私にはお金が必要だった。
 少なくとも、今のまま研究を続けているだけではダメなことは確かだった。
「いえ、もう少しまって返信すればよかったんです。返信せずに握っていた方が時間のコントロールが出来たのに」
「だから、普通の相手じゃなかっただけよ。先に疑問点の回答がそんなに早くくるとは思わないもの」
「……」
「ちょっと明日、お休みのところ悪いけど、時々メール見ててもらえないかな。この調子だと研究所で打ち合わせる時間がないかも」
「ええ。お昼前後なら見れますから、そこらあたりで良いですか」
「わかったわ。今日のメールチェックもだけど、休日出勤扱いにして、作業時間を請求してね」
「わかりました」
「……なんかダメね。気分切り替えましょうか」
「ゴメン、皆! もう一回乾杯しようか?」

 急に上条くんが周りに言った。
「先生ももう一度グラス持って」
 見渡すと、グラスを上げた。
「乾杯!」
 午前中の病院での告知が頭をよぎった。
 飲めもしないグラスをグイッと傾けると、目が回り始めていた。
 この時点ではただの立ちくらみだったかも知れないが、会が半分を回った頃には、本当に目が回っていた。
「あの時、よく測定機のスクリプトが怪しいって気づきましたね?」
「あぁ…… あれ、あれはカンよカン。おんなのカンてやつ」
「マジですか、女のカンって凄いですね」
「すごいのよぉ。スクリプトなんか一回見れば頭にはいるからぁ」
 自分では正確に発音しているつもりなのだが、口や舌が伴っていないのがわかる。
「プログラムコードは大部分が論理的なのだけれど、ある部分は感情的でもあるのよぉ。わかるぅ?」
 上条くんが笑いながら答える。
「なんとなくは」
「そこよそれなのよぉ……」
 自分の限界の酒量を超えている。頼んではいけないと思っていた。
「もういっぱいもらって」
「ダメよ」
 後ろから声がした。
「もう飲んだらダメ。帰れなくなる前に、気持ち悪くなっちゃうから」
「しょしょちょう…… じゃなくて|梓(あずさ)じゃない。今頃おそいわよ」
 中島所長は、上条くんをどかして、私の横に座った。店員を呼び止め、私の注文したお酒の変わりに何か違うものを頼んでいた。
「|知世(ともよ)も珍しいわね。こんなに飲むなんて」
「梓ものもぉよぉ」
「……知世は帰れなさそうね」
 所長の口元が笑ったように見えた。
「かえれますよ、かえれますから」
「そう言う時はダメなのよ。分かっているんだから」
 店員が所長にグラスを手渡した。
「ほら、お水。飲んだほうがいいわよ」
「あぁ…… 日本酒でしょう…… 梓はいつもそうやって日本酒飲ませてたもん……」
 私はグラスを右から左から眺めまわした後、上から口をつけた。
「いたらきます」
 アルコールなのか、水なのかがわからなかった。
 ふと、昨日の晩に現れた人物の影が見えた。
「あっ!」
 現実なのか、いつものソースコードのように現実にオーバーラップしている夢なのか、全くわからなかった。部屋の先の扉から、その影が出ていった。
「待って!」
「どこ行くんですか、坂井先生」
「知世!」
 後ろから大声で呼ばれるが、何故人を追って部屋を出たぐらいで騒いでいるのかわからなかった。
 私はその人物の影を追い続けた。
 昨日は男かと思っていたが、姿は女性のようだった。とはいえ、正面から確認したわけではなく、なびく髪が長いから女性に見えているのかもしれなかった。
 昨晩の『声』は男のように低かった。
「待って!」
 走っていた影は、急に立ち止まると振り返った。私は正面で向き合ってしまった。
「やっぱり女?」
 美しい顔立ちと胸元の宝石。
 眉間にはビンディがあるように見えた。
「インドのかた?」
 そのまま手を伸ばしてきて、私の両肩を抑えた。私は
「危ない!」
 杏美ちゃんの声が聞こえると、目の前の女性が消えた。
「えっ?」
 大きなクラクションの音が聞こえ、大きく迂回した車が高速で通り過ぎていった。
「大丈夫ですか!」
 杏美ちゃんが息を切らしてやってきて、私の手を引いた。
「坂井先生、怪我はないですか」
「知世…… 急にどうしたの」
 所長の声が聞こえた。
 何があったのか、ぼんやりと理解した。
 おそらく、私が夢遊病のように店を出て、国道で車に引かれそうになったのだ。さっきまで見えていた女性の影は、私の幻覚かなにか。
 私はそのまま目が回って、杏美ちゃんにもたれかかってしまった。

 記憶をなくすほど酒を飲む。
 そんな事はウソだ。

 いや、本当に記憶を無くした人もいるかもしれないから、言い方を変えよう。
 |殆どの場合ウソだ(・・・・・・・・)
 確かに酷く飲んだ。
 しかし、記憶はある。
 寝ていたのを錯覚するなら、その分の記憶はない。当然だ。寝ていたのだから。
 覚醒している時間が長ければ、一晩中起きて飲んでいるなら…… それはそれで記憶が交錯するかもしれない。記憶の順番と、実際の出来事順番がズレるかもしれない。
 だから、記憶を無くした…… と錯覚するのだ。
 つまり、昨晩のことを私は記憶していた。
 杏美ちゃんにもたれかかった後、所長がタクシーを呼び止めた。
 杏美ちゃんは所長に言われるまま私をタクシーに入れると打ち上げに戻り、所長とタクシーは所長の自宅へと向った。
 お酒で気分は良くなっていたが、何をするのもだるかったし、自分の将来への不安から、所長に求められるまま、私はベッドの上で服を脱いでいた。
 酔っていない時にはしないだろう、と思うところに舌を入れていたし、自分で自分を慰めているところを梓に見せていた。なにしろ気持ち良かったし、何もかも忘れて夢中になっていた。
 そのままこの大きなベッドに朝まで裸で居たわけだ。
 いや、今が朝なのか、単純に時系列からの推測にすぎなかった。
 私はベッドのしたに散らばって落ちている自分の肌着を拾って身につけると、遥か昔の記憶をたどりながら、トイレを探した。
 座って用をたすと、今が朝と呼ぶには遅すぎることが分かった。
「上条くん……ごめん」
 急いで所長が寝ている部屋に戻り、バッグからタブレットを取り出した。
 約束の時間まで、後何分もないが、やらないよりはマシという感じに、ゆっくりと契約書類に目を通した。
 契約が頭に入ると、何点かの疑問が浮かんだ。
 その段階で、上条くんのメールをチェックすると、同じ疑問点を的確に問い合わせていることが分かった。
「さすが」
 XS証券からの回答も正にこちらの求めていた内容だった。
 ほぼこれで問題はない。
 後は金額…… これは今の段階では何も決まらない。
 私は急いで上条くんに返信を書き始めた。
 その時、スマフォが鳴った。
「ん……」
 画面もロクに確認せずに応答すると、上条くんだった。
『今、お電話よろしいですか?』
「ええ」
『契約書類は確認いただけましたでしょうか?』
「今……」
『今、返信メールを書いている、んですね? 大体わかります。このままでOKか、更になにか質問するかだけ教えてください』
「午後は用事があるだもんね。OKよ。このままで問題ないわ」
『わかりました。良かったです。休日にすみません。お騒がせしました。では明日、よろしくお願いします』
 上条くんはそう言って電話を切った。
「知世…… 仕事?」
 所長は完全に起きてしまったようだ。
「XS証券の契約の件です」
「そう。大丈夫だったでしょう?」
「ええ。明日、回答します」
 ベッドから頭だけを出した所長が、手招きをした。
「来て」
「……」
 昨晩は|酔っていた(・・・・・)のと、|怖くなっていた(・・・・・・・)ことが重なっていたせいで、体を交わしてしまったが…… お酒が抜けた今、所長の隣に行くのには勇気がいった。
 ゆっくりとベッドに寄って、中に入って近寄っていく。
 シーツの温もりが感じられ、眠気をさそう。
 さらに近づいていくと、所長自身の体温に触れた。
「おはよう」
 そう言って、所長は目を閉じて私に顔を向けた。
 私も目を閉じて…… 半ばヤケ気味だった…… 唇を重ねた。
 薄目を開けると、所長の年齢に反して若く張りのある肌が見えた。
 舌が絡み合っていくキスの感覚と、首に回してきた手、そのせいでくっつく肌と肌の感触で、私の中で意図しない欲情が起こっていた。その一方で理性が、このまましてしまうと所長の支配から逃れられなくなる、と警告していた。
「……」
 昨日のアレ、が最後。
 私はそう決めた。
「あん…… 冷たいのね」
「……」
「そうそう。XS証券の話もあるから、知世に言っておくことがあって」
 ベッドサイドにおいてあったタブレットを取り出す。

「ほら、これ。知世のための研究棟よ」
 画面に描き出されたのは、まるでお城のようだった。シンデレラがかぼちゃの馬車に乗っていくところ。尖っていて、キラキラしている。
「これが研究棟?」
「水晶のクラスターをイメージしたものよ」
 確かに柱が重なり、くっつきあったような形は水晶のクラスターをイメージさせる。
「派手すぎませんか」
「私が所長になった時、大した宣伝効果がなかった、と周りからさんざん叩かれたのよ。だから、今度何かあるときは、大げさなくらい派手なのにしてやろう、と決めていたの」
「私が所長になるわけじゃ……」
「知世が自分で思っているよりも、画期的な研究成果なのよ。XS証券と共同開発というのも話題としてはいい。加えて、この研究棟。これで研究資金が集まるわ」
 ポイントはそこか…… と思った。
 自分の為に研究棟を建てるというより、マスコミへの宣伝の為の投資なのだ。
「明後日。明後日は写真とるから。その雑誌にのせるインタビューも受けてもらうから」
「えっ?」
「テレビとかじゃないから怖がらなくていいのよ。この研究棟の大きなイラスト画があるから、それをバックに写真を撮って……」
「まだXS証券に回答したわけじゃ……」
「もう戻れないの。考えずに突っ走ってもらうから」
 所長は体を寄せて、私の首筋にキスをしてきた。
 私はタブレットを受け取り、画像を確認した。
 水晶の城、そう呼びたくなるような建物が描かれていた。

 研究室に入ると、疲れた顔で杏美ちゃんが振り返った。
「坂井先生…… 取材の申し込み電話が」
 言っているそばから杏美ちゃんの前の電話がなる。
 しばらくそれを無視して鳴らし続けている。
「メールも見切れないし、どうしましょう」
「……事務局側は何もしてくれないの?」
 杏美ちゃんがうなずく。
 電話の音がうるさくて、私が受話器を取った。
『居るならなんで取らないの! 取材の申し込みよ』
 ガチャッ、と大きな音がして外線と繋がる。
『坂井先生の研究室ですか? 撮影とインタビューを申し込みたいんですが……』
 私はスケジュールを見ながら、相手の要求に答えようとするが、ならこの時間、じゃあ、この場所で、と自分たちの主張しかしてこない。
「こちらもスケジュールがあって」
『雑誌に載せるんですよ。そっちから頭を下げるぐらいの話なんですよ』
「私は、そちらからの取材申し込みだと思っていますが」
『研究費用を稼ぐから一杯インタビューが必要なんじゃないですか? いいからこの時間に取材させてください。こちらも時間がないんです』
 何なんだ、この態度は。
 杏美ちゃんが疲れた顔をしていたのもうなずける。こんな感じの相手とずっと会話をしていたら、普通の人は、すぐ頭がおかしくなってしまう。
「では取材は結構ですから」
『あっ、待て、坂井先生に代われ』
「私が坂井です!」
 そのまま受話器を置いた。
 置いた瞬間に次の電話が鳴り始める。
「坂井先生……」
「今日もこの調子だとしたら何も出来ないわね」
 杏美ちゃんがうなずいた。
「コードをはずしちゃおう」
 私は電話器のイーサケーブルを外した。
 音が消えた。
「良いんですか?」
「杏美ちゃんの仕事は電話番じゃないんだから」
 所長が以前言っていた雑誌の取材は、テレビ局も相乗りしていたもので、その日の夕方に放送された。
 まるでスーパー女性研究者が現れたかのような報道で、直後から研究室の電話がこんな状態になったのだ。
 取材の前日のXS証券との契約は、何の障害もなくスムーズに終わり、翌日には上条くんが主体となって共同開発がスタートしていた。
 一方で私はそんな取材攻勢で共同開発の方には上条くんを通してしてか参加できていなかった。
 バッグの中から振動音がした。
「先生のスマフォじゃないですか?」
 私はスマフォを取り出すと、画面には研究所と表示されていた。
 杏美ちゃんに見せるようにスマフォを下げた。
「?」
「内線を取らないから、事務局から直接かかってきたんですよ」
 私は拒否側へ指でスライドさせた。

「事務局の人、どなり込んできますよ」
「けど、仕事をしない事務局が悪いじゃない」
「坂井先生。事務局の人が来たら私が困ります」
「……」
 私が線を外したのだから自分が怒鳴られるのならいいが、杏美ちゃんが事務局から叱られたり、苦労するのでは本末転倒だ。
「電話はつなぎましょう。けど、亜美ちゃんは今日は帰っていいわ。私がやるから」
 のらりくらりと受けていればなんとかなるだろう。
 その時はそういう気持ちだった。
「いいんですか?」
「もう数日この調子でしょう? いいのよ」
 少し杏美ちゃんの表情に生気が戻ってきたようだった。
「事務局の人が怒鳴りこんで来る前に、早く帰った方がいいわ」
 繋いだとたんに電話がなった。
 私は電話の対応を始めると、慌てて荷物をまとめ、研究室を出いていく杏美ちゃんを見送ることもできなかった。
 細かい時間取りをしてくる会社や、ざっくりと時間を抑えてくるところ。
 電話に出ているのが私だと分かると、そのまま声を録音したい、といってくるメディア。
 他の研究室の回線も使えなくなり、直接部屋にきたり、電話で文句を言ってくる所員。
 そうやっている間に、約束していた他社のインタビューやら写真撮りがはいる。
 昼ごはんどころか、ロクに水も口に出来ない状況だった。
 所内をあちこち動き周り、研究室に戻れば電話を受けていた。
 現実の光景に、ソースコードが…… あの見知らぬ言語の…… スクリプトがオーバーレイしたように重ねて見え始めた。
「坂井先生、口紅直したほうが」
 女の子が、気づかってくれたようで、私は少し化粧室へ逃げ込むことができた。
 鏡で自分の顔を見ているのに、そこに文字が重なって表示されている。
「また、あのコード。水晶の動作」
 鏡をみたまま、バッグから口紅を取り出そうとすると、手に入れた覚えのない四角いものが触れた。
 ツルツルに磨き上げられたガラス?
 スマフォか、と思ったが、スマフォなら左のポケットに入っている。それに表も裏も同じ感触で、その点がスマフォとは違った。
「?」
 取り出してみると、本当に透明なガラス板だった。
「それとも、水晶かしら?」
 取材やらテレビ番組の収録やらで、いただきものも沢山あった。
 覚えていないが、もらったのかもしれない、と考えてバッグにしまった。
「ふー」
 気持ちを入れ替えようと、肩の力を抜いて息を吐いた。
 目的の口紅を出して、手にとって塗り直す。
 そうはいっても細かく直す時間はない。
 ティッシュではみ出たところを拭って、バッグを整理した。
 さっきのガラス板が光ったような気がして、取り出した。
 ガラス板に文字が映っている。
 頭の中に浮かぶ文字と同じ。発音方法は知らないが、意味が分かる。
 そして、今見ているのが表なのか裏なのかも。
 トントン、と化粧室の扉が叩かれた。
「メディアの方が早く来てくれと」
「今行くから……」
 苦しい…… なんだろう。
 記憶の片隅にあるのと同じ苦しさ。
「先生?」
 扉ごしに声が聞こえる。
 目の前が白くなって、前が見えない。
 スクリプトが高速でスクロールしていく。
『読め』
 今? この状態で?
 私は立っていられなくなった。
「坂井先生?」
 急にはっきりした声が聞こえる。
 何か返事をしないと、苦しい、私、苦しいんだけれど……
 声が出ない。
『読め』
 あなたは誰?
 ……苦しい。
「先生?」
「どうしたの?」
「救急車、救急車呼んで!」
「何? 坂井先生?」
「早く救急車!」

「呼んでます」
 意識が薄れていくなか、女性の姿が現れた。美しい顔立ち、胸元の宝石。あの晩、私が道路に飛び出す寸前のところを、抑えてくれた人物。
 その人は、光るような薄い色の髪が腰まである、長身の女性だった。どことなく、中島所長の若い頃にも思える。
 現実の景色は全く白く霞んでしまっているのに…… これこそ幻覚というものだろう。
『読め』
 女性が、|また(・・)そう言っているのが分かる。
 読めないです。
 私はどうやってこの字を発音していいか、なんと読んでいいのか……
 その女性は私の方を見て、睨んだ。
 そのまま足も使わず、スッと私に近づいてきて、私を通り抜けていった。




 気がつくと私はベッドの上で寝ていた。
 点滴が繋がっていて、口にもマスクがあたっていた。
 重大な状況なのかは分からなかった。
 もうどこも苦しくなかった。
「気が付きました?」
 返事をしようとしても、口がまともに動かない。しびれているのか?
「大丈夫ですよ。寝ていてください」
 看護師が言う言葉はハッキリと聞こえる。自分の意識はしっかりしている。
「ぉがぉっぁ……」
 口が、喉が、正しく言葉を発せられない。
 何故なんだろう。
「落ち着いてください。我々に任せて。状態は安定しています。寝ていていいですから」
 手も足も同じように動かない。意識はしっかりしているのに、何もかも動かない。
 このまま寝てしまったら、本当に私は……
 次に起きることはないのでは?
「…がぁ…… ぁっ……」
 全く動かない。
 また見ている景色が白んでくる。
「っ……」
 意識もぼんやりし始めた。
 宙に浮いているような文字列がスクロールし始める。またあの、水晶動作のソースコード。
 心配そうに見つめる女性看護師の後ろに、あの女性が立っている。
『読め』
 声が出ないのに……
 助けて……




 次に目が覚めたのは、病院の個室だった。
 蟻地獄から体が飛び出して、生き返ったような気分だった。
 全く体が動かなかった、あの時の状況は脱したようだった。
 しかし、告知の時に聞いたように、対処療法でしかない。根本的な治療を受けるには、巨額の医療費を用意し、長い待ち行列の最後に書き加えてもらって、手術を受けねばならない。
 ベッドを起こして、上体を起こすとチャイムがなった。
「どうぞ」
 ドアが開くと、上条くんの顔が見えた。
「先生……」
「坂井先生。無事で良かった」
 上条くんの前に、XS証券の林取締役が割り込んで、先に病室に入って来た。
「(止めたんですが……)」
 申し訳なさそうな上条くんの声が聞こえた。
 ものすごい匂いのする真っ赤なバラの花束を私の足元に放り投げると、林は隣の椅子にドカッと座った。
「今、上条くんに色々やってもらってるよ」
 上着からタバコを取り出すが、何か考えたようにそれを戻した。
「これは確実に特許が取れる。先生の特許だ。超高速の光ファイバー。試作ももう出来ますよ。これを武器にXS証券は新たな株取引の世界を作り上げる」
 看護師が入ってきて、迷惑そうな顔をした。
「すみません、声が大きいです」
「ここは個室じゃないか。声が大きいと言われるが、壁が薄いせいじゃないのか?」
「すみません。病院なので、静かにしてもらえますか」
「分かりました。すみませんでした。」
 上条くんが頭を下げた。
 看護師が怒りかけたところを上条くんになだめられた格好になった。
「まあ、とにかく順調だよ。先生の水晶の棟もどんどん作っているから」
「えっ? あれは来年とかの話じゃ」
「来年じゃ遅いって。商売はスピードだよスピード。まぁ、みてなさい。半年で作らせるから」
 上条くんが苦笑いしていた。
「じゃあ、元気そうで良かった。早く研究に復帰して、もっと凄い水晶の応用研究をしてくれ」
 林は、上着のタバコを口に加えて、病室を出いていった。
 上条くんが残った。
「ついていかないでいいの?」

「もう帰っちゃうんで。先生もあまりいると負担でしょうから、少し話をしたら私も帰ります」
 上条くんが、横の椅子に座った。
「光ケーブルの試作は、先ほど林さんがおっしゃった通りです。非常に早く、順調です。特許は後で、という形になります。早く敷設して実際に使いたいそうです」
 言い終えると、上条くんが視線をそらした。
「?」
「病室にいる先生には言い出しにくいんですが……」
 杏美ちゃんと婚約したとか?
 研究室からXS証券に引き抜かれた、とかだろうか。
 何か、嫌な予感がした。
「コードを、ソースコード見てもらえませんか」
「あ、なんだ。そういう話?」
「あ、すみません。あの、困っていて。どうでしょうか?」
「良いわよ。なんのプログラム?」
「実は、XS証券側のプログラムです。株取引の」
 現状態でも、上条くんは、なかば引き抜かれたようなものだ…… 今更そんなことを報告はしないか。
 少し寂しいような気持ちになった。
 私はうなずくと、上条くんはタブレットからコードを見せた。
「全体が必要でしょうから後で送ります。ここなんです」
「ああ…… なんかかなり変な比較式使っているけど…… もっと簡単に判断出来るんじゃないの?」
「そうなんです! ボクもそう思って」
 上条くんが自分のことを『ボク』というのも珍しい。
「あ、すみません。声が大きいですよね」
 ざっとコードを眺めると、なんだろう、やたら多い変数名が気になる。
 何度も何度も別の変数に代入してしまっている。
「資料はソースコードだけなの?」
「林さんが怒ってソフト会社との契約破棄してしまって。これ以上の資料はもらえないんだそうです。この箇所かな、と思ったのも、私がソースファイルの差分をとったから分かっただけで……」
「林さんがソフト会社に要求した内容は?」
「こっちです」
 林の指示、という文書も、不思議な言葉で書かれていた。
 証券会社の用語なのか、良くわからない言葉が続く。
 上条くんに解説してもらいながら、指示の内容を読み解く。
 この短時間で分かるようなことじゃない、と思ったので「時間くれる」とだけ伝えて、コードを送ってもらうことにした。
「すみません。頼むだけ頼んで帰るなんて…… あ、違う違う。お見舞いに先生の好きなケーキ買ってきました。食事の制限があるか確認してませんけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、ありがとう」
「後で食べてください。冷蔵庫に入れておきますね。それじゃ」
「うん」
 私は軽く手を振った。
 長い間寝ているだけだったのに、ちょっと会話して考えごとをしたら、急に疲れてしまった。確かに倒れたのは、あの病気のせいだろうけれど、病気はこんなに体力を奪ってしまうものなのか、と恐ろしくなった。
 いつの間にか寝てしまったようだった。
 気がつくと、部屋が夕日の色に染まっていた。
 看護師さんが運んできた食事を食べ、その後に上条くんが持ってきたケーキを食べた。
 看護師さんが、その分も合わせて記録していた。
 私は「私、食事制限があるんですか」とたずねたら、単純に食中毒可能性や、摂取カロリーを記録が必要だから、ということだった。
「消化が良ければ、何を食べてもいいですよ」
 ちょっとの間だが、入院している為に体が弱っている可能性があるという。油っぽいものを食べると、消化が悪くて体に負担をかける可能性がある。
「だから、すぐ疲れちゃうのかしら」
「そうですね。退院したら普段より少し体を動かすようにしないと、動かさないと体は弱っていきますから……」
 私は少し納得した。
 食事の後、少し休むと私は上条くんのコードを改めて確認した。
 気になる行がいくつかあって、目をつぶるとそこがハイライトされた。
 多分、ここがおかしい。
 都度、比較用の変数に代入しないで、直接変数同士の計算をさせるか、全部をまとめて計算した結果を代入すれば良いのだ。
 一体、この計算は何をしているのだろう。
 林がソフト会社へ指示した式と同じ、とは言い難い。
 何かどこかの解釈を間違えている、としか思えない。
 私は上条くんに気になる行と、林が指示した計算はこうなのでは、とメールを書いた。
 昼間と同じように、急速に疲れてしまい、消灯時間より先に灯りを消して寝てしまった。
 翌日、上条くんからの返信と、その先の林からの興奮したような返信を受けた。
 正直、林からの返信はどうでも良かったが、今後もこういうことがあった時に頼ってきそうな雰囲気を感じた。

 その日より後は、誰もお見舞いには来なくて、次第に体調も安定してきた。
 林がお金を払っていった、というので私は退院まで、同じ個室で過ごした。その数日の間に、テレビや雑誌で、自分の姿が掲載されはじめ、何人かの看護師さんに「雑誌で見ました」、とか「テレビで見ました」と話しかけられた。どんな写真にも、中島所長がこだわっていた『水晶の研究棟』が写り込んでいて「水晶の女王」みたいですね、とも言われた。
「水晶の女王…… ですか」
「ほら、あの…… この所長さんと坂井さんが……」
 私と所長が二人とも女性なせいで、まるでアニメ映画であったダブルヒロインのようだ、と言いたいらしい。
 女性同士で好きあっている、明言されている訳ではないのに、ぼんやりと匂わせている、そんな関係。
 おそらく、実際の研究を報道したいのではなく、そういう演出を加えて、大衆の興味を引くよう、雑誌やテレビが創作したに違いない。
「所長と研究員なんで、そんなに仲がよいわけでじゃないんですよ」
「ああ…… わかります。長がつく人とはあんまり仲良くできないですよね」
 看護師社会でも、その説明で何か腑に落ちるところがあるようだった。
 そして、それ以上は突っ込んでこないことが分かり、私は少し安心した。梓と知世と呼び合うとか、この前も家に泊まったとか、そんなこと言ったらどんなことになるかは目に見えていた。
 退院の日はXSの林がやってきて、入院費を払いたいと言い出した。
「共同研究しているだけであって、林さんに何かお金をいただく訳には」
「この前のコードの件ですよ。上条くんから聞きました。先生の指摘だって」
 そんなことまで林に伝わってしまったか、と私は思った。
「あれはあれで、入院の退屈が紛れてちょうど良かったです」
「こちらにとっては非常に重要だったので。ソフト会社ってやつはやっかいですよ。自分で作ったバグを直すのに、また金を請求してくる。こっちのミスに漬け込んで、変な不具合を混入させてくるんだ。自分で仕掛けたタネでまた自分が儲ける。そうやって骨までしゃぶってくるんだ」
「そうですか? そうは思いませんが、そういう会社もあるんですね。とにかく、それが私の入院費を払っていただく理由にはならないので」
「気にしないでください。私にとってそれだけの価値があったっていうことなんですから」
「……ここで払ってもらうと、なんか他にも頼まれそうで嫌なんです」
 ハッキリ言ってしまった方が話しが早い気がしていた。
「ズバリその通りですよ。鋭いなぁ。まあつまりは、割に合わない。金額が少ないってことですよね。じゃあ、こうしましょう。ここの入院費は先生が支払って、後でちゃんと倍がけの報酬を振り込みますよ」
 そう言って林は引っ込んだ。
 病院の会計を進めると、金額にびっくりした。
 果たしてこの額を払って、自分の貯蓄は大丈夫なのだろうか……
 保険会社の人から電話があり、私はスマフォを手にとった。
「すみません。入院一時金のことなんですが、支払いは出来ないということになりました」
「そんな、保健契約の時、確かどんな入院でも一時金が出るという話だったと……」
「そうなんですが…… 坂井様の病名が、約款にある『高頻度入院が予測される病気』に該当しまして、支払いが出来ないということに」
「そんな、全くでないんですか?」
「はい」
 私は怒りでスマフォを切った。
 ただでさえ入院費は高いので、一時金が出たところで焼け石に水ではあったのだが、出ないという事実に腹がたった。この病気のままでは、手術時の一時金も出ないのだろう。
「坂井先生、振り込みの一部を前払いしましょうか?」
 林がしゃがみ、うつむく私の視線に入って、そう言った。
 払えない金額ではない。そう思いながらも、私は林にこう言った。
「お借りできますか」
「貸すんじゃないですよ。正当な支払いの前払いです」
「すみません」
 これで今日持ってきた次の話も対応せざるを得ない。
 病院の手続きを終えると、林が切り出した。
「先生の光ケーブルはもう敷設されます。そして我々のXS証券の、新たな株式市場が開かれます。これの完成には、坂井先生のプログラム能力が必要なんです」
「私はプログラム能力はないですよ」
「上条くんから色々と聞きましたから。コードを直す力だけじゃないのは分かってますよ。そんなに短期間に長いコードを書いて欲しいとか、そういう無茶なことではありません。上条くんにあらかじめ見てもらってますからね」
 何を作れというのか、まったく乗り気ではない私は、憂鬱な気分になった。
「私の書いたこの株取引アルゴリズムを、プログラム化して欲しいんです。環境とか言語とか詳しいことは上条くんから連絡が行きます。概要を説明しますから、一緒にXS証券まで来てください」
 病院の前のタクシーに乗り込み、林は会社の住所を告げた。
 後はずっとスマフォでメールを打ったり、頻繁にかかってくる電話に出たりしていた。
 思ったよりも早くXS証券につくと、導かれるまま社長室に入った。
「まずは文書で説明します」
 株取引の用語を知らない私にとって、株取引のルールなどは全く分からなかった。
 とにかく金額の大小、買うのか売るのか、具体的なレベルに落としてもらって説明を受けた。
 そして、なにやら数式を書いて説明が始まった。
 分割して、何度も何度も売りと買いを繰り返す。どこで儲かるのかということは分からない。とにかく早く、高頻度でトレードすることで他社を出し抜くことが目的だった。手数料が非常に高くついて損をするのでは、と思ったが、そこは問題にならない、と言っていた。

 取引の理論は頭に入った。
 後はどうやってコード化し、かつ、何ミリ秒でもいいから速い処理にしてくれ、という林の要望にどう応えるかが問題だった。
 割り算掛け算を減らすとか、そういうレベルまですすめるべきなのか、色々と悩むことは多かったが、これはこれで楽しめそうだ、という気がしていた。
 光ケーブル作成は進んでしまっている。製造などで新たな課題が出てくるまでは、私がこのコードに取り組んでも問題ないだろう。
 少し、林の様子が変だった。
「坂井先生」
「どうしました?」
「坂井先生、単刀直入にききます。私をどう思いますか?」
 妙に体を寄せてきている。
 迂闊だった。林は男、私は女だ。
 いくら私が男、林に興味がなくても、向こうがどう思っているかを読むべきだった。
 危険だ、と思い立ち上がった。
「待って」
 手を取られ、引っ張られた。
 反動でまた椅子に座ってしまった。
「答えを聞きたい」
 林の顔が、私の限界を超えて近づいている。鼻と鼻がぶつかりそうだ。
 私は右手で林をはたいた。
「好きだ。あの飲み会の時に、分かったんだ。知世さん、すごく良い匂いがする」
 怯むようすもなく、一度は離れた顔を近づけてくる。私は声を上げた。
「大丈夫ですよ。ロックしてますから」
「訴えます、今回の提携はご破産です。さっきのコードも作りません」
 私は転び、仰向け状態で手と足をバタバタと動かしながら扉方へ向かった。
「……」
「ともよ、なんて呼び方しないで。本当に契約を破棄します」
「……」
 林は立ち上がって頭を垂れた。
「すみません」
 私はなんとかドアノブに捕まって立ち上がった。扉を開けようとしたが開かない。ロックされているようだった。
「自分には妻も子供もいます。本当にどうかしています。このことは誰にも話さないでください」
 頭を下げているが、謝っているような口調に感じなかった。
「この部屋に入った時から、貴方が私を受け入れてくれるものと信じていました。まさか答えがノーだなんて……」
 何を根拠にそんな風に思ったのか、この部屋に入ったことで行為に及ぶであろうことに同意したとでもいうのか。仕事の話ししかしていないのに。
 林が腰の辺りに手を当てて何かしている。
「開けて! このドアを開けて」
「坂井先生。せめてこれを鎮めてもらえないだろうか」
 林はズボンとパンツをおろし、下半身をさらけ出した。
 私はドアノブの上にあったカバーを思い切り叩いて、そこにあったサムターンを回した。
 同時に錠が開き、ノブを回すと社長室を出た。
 何がなんだか分からない。
 なんであんな勃起物を晒して、女性が応えてくれると思ったのか。
 おそらく、何度もああやって成功していたのだろう。だから、私にも同じようにした。そうとしか思えない。
 あそこで林と行為に及ぶ女性はどういうつもりなのだろう。
 お金? 安定した生活? 林に体を許して、代わり林が何をくれるというのか?
 もうひとつの部屋のドアを開けると、秘書が座っていた。
「お帰りでしたら、下に車が……」
 秘書は何があったのか察したのか、最後まで言わなかった。私は秘書の前を通り過ぎ、XS社を出ると開いていたエレベータに乗り込んだ。
 ビルはそのまま地下鉄の駅に直結していて、そのまま地下鉄の改札を抜けた。
 タブレットを見ると、何事もなかったかのような林のメールが入っていた。
 謝罪の言葉も何もない。
 ただ仕事の依頼をしているメールを読んだだけで、こんなに怒りが湧くものなのか。
 タブレットを閉じて、高校の頃から何度も読んでいる本を取り出し、開いた。
 素敵な世界へと繋がるタンス。
 タンスにかかっているいくつもの服を避けて、奥へと入っていくと、たどりつくのは別世界。魔法の王国の、森の中。
 そこで繰り広げられる美しい王女と騎士の恋。
 魔法に冒険、見知らぬ文化に見たこともない絶景。そこにはワクワクするものの全てが詰まっている。
 時々、こうやって気を紛らわせる。
 何度も読んだ部分を読み返してみたり、忘れていたエピソードを思い出す為に真ん中あたりに指を入れてそこを読んだり。
 気分が紛れたり、気分が穏やかになったりするものだった。
 しかし、今日は違った。
 文庫本が透けて、その先に林の体が見えた。

 周りにはXS証券の社長室の風景が。
 そうだ、XSビデオオンデマンド……
 いやらしい行為をしている男と女。
 ……そもそも、始まりはそいう会社の社長か。
 私は、急に周囲の男性の視線が気になって、動揺しはじめた。動悸が早くなっている。
 何かこっちを見られているような気がする。
 林が私の服を破ってないだろうか。変なアプリを起動させて、私の場所がバレてないだろうか。あの男は林の変装ではないのか……
 私は思い立って、全然知らない駅で下りてしまった。
 混雑してきたた車内にいることが耐えられなくなったのだ。
 何本か電車が止まり、何本かの電車が通過した。電車が来る度、壁側を向いて顔を隠した。
 電車が来ない時はファンタジー小説を読んだ。
 そうやって時間が立つ内、車内が空いていることに気がつくと、再び電車に乗った。
 林がいないことを何度も確認すると、小説を開いた。
 しかし、そこには不思議なソースコードがオーバーレイして映し出された。
「!」
 何なの、と言ってしまいそうだった。
 自分のこの不思議な力に、今日は無償に腹がたった。そのコードを読んでいくと、何のソースコードか分かった。林が依頼していたコードだった。
 小説を読んでずっと駅で待っている間、電車に乗って周りを見回している間にも、少しずつコードが組み立てられ、いつの間にか構築されていたのだ。
 出来上がったのは純粋にロジックの部分のみだった。
 実際の株取引の部分をどう呼び出すのか、あとはそういう手足だけを調べて付け足せばよかった。だから、自分の仕事でいえば、八割九割は終わっていた。
 タイプする必要もあるから、実際はもっと残りの作業は多いのだが、ざっと見渡しても気になるステートメントはない。打ち込みさえすれば、おそらく何もデバッグせずに動いてしまうだろう。
 後は、林が言っていた、擬似市場、擬似株取引で確認すれば、これが有用であるかどうか判明するだろう。さっさと打ち込み、送って、林のことと一緒に全てを忘れよう。
 念の為に、ソースコードを頭の中で何度か見返し、問題がないことを確認したころ、電車が自宅のある駅についた。
 そのまま家に戻り、ノートパソコンを開くと、頭の中のコードをタイプした。
「ふぅ……」
 部屋の灯りをつけていないことを思い出し、立ち上がってスイッチに触れようとした時、ボゥっとした光りが見えた。
 その光りは人の高さ程、縦に伸び、次第にくっきりと人の姿を作り出した。
「ホログラム?」
 灯りをつけたら消えてしまう。
 私は立ち止まってその光りを見続けた。
 それは何度も『読め』と言ってきた、あの女性だった。
「あなたは、何なんですか?」
「わたし…… ガザッ…… は…… バザザッ…… の……」
 酷い電波状況で聞くアナログのラジオのようだった。
 そういえば、生まれた家の近くに小さなトラックで八百屋が来て、野菜を売っていた。高齢のおじさんは、ラジオをぶら下げ、ナイターを聞いていた。『ワンストライクワンボール、振りかぶって投げました!』そんな風な、意味の分からない言葉がガサガサした音と一緒に、夕暮れの空に混じって思い出される。
「すいしょ…… ザッ…… おう…… あなたたた…… グバッ…… あなたです」
「私?」
 自分の鼻を指差すと、立体映像のような女性がうなずく。
「あなたは……」
「……」
 私は灯りのスイッチを入れた。
 LEDの強い光に照らされ、女性の姿が一瞬で消えた。
「何よ」
 私は怒ったようにそう言った。
 灯りをつけて、消したのは自分なのに。
 ホログラムのような光の女性が、何を言うか、確かめるのが怖かった。
 何もかも全て失ってしまう気がした。
 命にかかわるほど、大切なものを。
 辺りを見回しても、その女性の姿はもう見えなかった。もう忘れよう、そう思った。
 机に戻って林に返信するメールを書き、ソースコードのファイルを暗号化して添付した。
 後は勝手に暗号化のパスワードが書かれたメールが別送される。
 未だに社長室での林の姿が思い出される。
 もう恐怖はなかったが、代わりに当初を上回る嫌悪感が満ちていた。
 直接会いたくない。
 同じ空気を吸いたくない。
 思い出して鳥肌がたつのが分かった。

 助けてくれる人はいる。
 たった一人。
 私はこのまま寝るのが怖かった。
 病気、取引先の社長、頭の中に何度も現れる女性。
 全てから守ってくれるわけではないけれど……
 それでも、そう思いながら、その人に電話をかけていた。
 話し終えると、タクシーを拾って乗り込み、その人の所へ向かっていた。
 実験の打ち上げの後にも行った、あの場所に。
「退院した日に家にくるなんて、体は大丈夫なの?」
「中島所長…… 私…… もうダメです」
 部屋に入り、扉を閉めたと同時に、私は泣きついていた。
 中島所長の顔を見た瞬間に、心の中のダムが決壊した。
 自分の中から溢れ出てくるものを、抱きしめてくれる人間が必要だった。
「……何か、電話の雰囲気もおかしかったけど…… そう」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 自分が何を謝っているのか分からなかった。
 おどろくほどの量の涙が、所長のうなじに落ちていった。
 中島所長は拭いもせず、聞き返しもしなかった。
 ただずっと、抱き合っていた。
 曲げていた手が、すこししびれたころ、所長が行った。
「中に入りましょう」
 私達は体を離して、部屋に入った。
「お腹空いてる?」
 私は首を振った。
「じゃあ、お風呂入りましょうか」
 うなずいて答えた。
 中島所長がバスルームの方に行って、帰ってきた。
「聞いてもいい?」
「……」
 自分の中でも何がどうなっているのか、整理はついていなかった。
 XS証券の、林のことは言いふらしてやりたいが、共同開発をするとか、新しい研究棟を作ってもらっている立場から、言ったところでどうにかなるものではない。
 頭の中に何度も現れる女性のことは、もう現実なのか幻覚なのかハッキリしない。これも話してなんとかなるものではなかった。
 自分の病気…… その先にある死。
 私は、所長にその話しをした。
 ある病院での手術待ちのリストに入ったこと。実際の手術を受けるのにかかる金額が法外なこと。待っている時間と残された命の時間との競争であること……
「そういう手術の待ち行列って、お金で繰り上げてもらうことができるのよ」
「!」
 そういうことは考えた。
 しかし、同じことを考えている人の行列で一つ先に入れてもらう為のお金は、一体いくら掛かるのというのか。
 順番を替えたために、死ぬかもしれない他の人のことは? 他人を殺し、自分を生かす…… 人の道から外れていないだろうか。
「……」
 私は所長に体を寄せた。
「それは出来ない……」
「そう……」
「けれど、死ぬことも受け入れられない……」
「もう、そういうお金だと、思わない方がいい。初めから手術にかかるお金だとおもうしかない。リストに誰がいるか分からないのよ。知世が抜かされているかもしれないのよ」
「……」
 後はそのリストの順番を変えるだけの金額だ。
 正直、その額を返せる見込みはない。
 今、ここで言えば、中島所長は貸してくれるだろう。
 それは同時に束縛から逃れられなくなることも意味している。
 救われるならそれでいい…… そう考えるのか。
「さあ、お風呂はいろうか」
「……」
「髪、洗ってあげる」
 ドキッとした。
 所長が髪を洗ってくれた思い出。
 湯船につかりながら、仰向けに頭だけを出し、そこを洗ってくれたのだ。
 顔に少しはねたお湯が当たるだけで、頭皮と毛髪がシャワーのお湯ですすがれていく。
 指の腹で丁寧にマッサージされるように、洗っていく。
 そのまま眠りにつけたらどれだけ素敵か。
「あれ? どうする?」
 私はうなずいた。
 お風呂では、当然のように体を洗いあい、洗うだけにとどまらずお互いを慰めあった。

 温かい湯につかったり、そのまま寝そべったり、欲望のまま指を唇を這わせたり……
 何もかも忘れて愛し合った。
 すべての嫌なことをわすれようとして、夢中になっていた。



「また同じ服を着るつもり? ほら、そこにあるでしょ?」
 中島所長が指差した。
 そこには以前買ってもらったバスローブが置いてあった。
 ためらわずに袖を通し、羽織った。
 所長がにっこりと微笑んだ。
 私はすこしその笑顔にゾッとしていたが、鏡に映る自分の顔は普通の笑顔だった。
 気取られてはいない。
 中島所長も体を拭うと、下着も付けずにバスローブを羽織った。
「お酒飲む? ワインしかないけど」
「ええ」
 リビングにワインを用意した。
 低くて大きなソファーに二人で座り、ワイングラスを手にとった。
「何に乾杯するの?」
「……」
「退院。そうそう。退院おめでとう」
 グラスを上げ、お互いの顔を見合いながらワインを口にした。
 お風呂で温まった体に、少し冷えたワインの温度が心地よかった。
「美味しい……」
 素直にそう言っていた。
「良かった。けど、お酒飲んでも大丈夫なのかしら」
「大丈夫です。何か食事の制限があったら聞いてるはずだし」
「まぁ、一杯ぐらいは、ね」
 私は急速に酔いが回るのを感じていた。
 さすがにこんなに体調に変化があるものなのだろうか。
 今のところ、具合が悪くなる方向ではなく、回りが速いという感じだ。
 私はグラスをテーブルに置いた。
「?」
「もう回ったみたい」
「しばらく飲んでなかったから? 大丈夫なの?」
「少し時間を置けば、きっと」
 きっと大丈夫のはず。
 その時、バッグからスマフォの振動音がした。
「あっ、電話……」
 立ち上がって取り出すと、画面に杏美ちゃんの顔が表示されていた。
「どうしたの?」
『先生、お休みのところ電話してスミマセン。あの…… 指示のあったコーディング部分で分からないところがあって……』
「えっ、どこのこと? 製品検査用のプログラムのこと?」
『ええ、そうなんです。明日は来られますか?』
「うん…… 朝からは無理だけど」
『良かった! もう分からないことだらけになっちゃって。待ってます!』
「じゃ、明日聞くから」
 通話を切った。
 所長が私を睨んでいた。
 ゾクッと、体が身震いした。
「知世、今の誰?」
「所長もご存知ですよ。杏美ちゃん…… 山田杏美さんからの電話です」
「スマフォ見せてよ」
「疑うんですか?」
「いいから」
 私は通話履歴を表示してみせた。
「杏美…… 何、この写真」
 杏美ちゃん本人の笑顔の写真だった。
「本人が送ってきたんですよ、電話帳用にって」
「それをホイホイ登録したってこと?」
「せっかく送ってきたのに悪いじゃないですか」
「登録して、見せて、その後削除すればいいじゃない」
「わかりやすいから、そのままに……」
 そうだ、思い出した。
 何故、身震いしたのか。
「うるさい! この杏美って女とどういう関係なのっ!」
 立ち上がって、胸ぐらを掴んできた。
 中島所長にはこれがあるのだ。
 忘れていたわけではない。けれど、迂闊だった。
 ここにくれば、救われるはずだった。
 杏美ちゃんの写真とかを見せれば、こんなことになるのは分かっていたはずだ。

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