その時あなたは

趣味で書いている小説をアップする予定です。

カテゴリ: 水晶のコード

 しかもご丁寧に所長の考えに反抗的な態度をとってしまった。
 酔いが回っていたせいなのか……
「おい!」
 足を引っ掛けられて、ドン、と肩を押された。私はどうにもならず、尻もちをついてしまった。
 所長は肩を押し込んでくると、そのまま馬乗りになった。
「若い|娘(こ)の方が良いんでしょ」
「そんなんじゃありません」
「ウソ!」
 パチン、と左の頬を叩かれ、肌がじんじんした。
「|梓(あずさ)のことが好きなんです。誰よりも」
「ウソよ!」
 右手が逆方向からくるか、と思った時、所長は何かに気付いたようだった。
「!」
 そして手を戻し、もう一度、同じ方から、私の左の頬を叩いた。
 頬は痛かったが、所長がただのヒステリーで怒っているのではない、と思った。
 右手の甲で、私の右頬を叩かなかったからだ。
「じゃあ、私から電話がかかってきたらどういう表示になるの?」
「かけてみてください」
 所長はスマフォを持ってきてささっと操作した。
 しばらくして私のスマフォが応答した。
「あっ……」
 所長は自分のスマフォを置いて、私のスマフォを両手で持った。
「……もう何年もたつし、知世の持っている機種が変わったから、消してしまったと思っていたわ」
 スマフォを置くと、両手を広げて私を包むように抱きしめた。
「ありがとう……」
 それは私が所長に言いたい気持ちだった。
 ありがとう。
 先が見えない私を、救ってくれるのは中島所長、あなただけです。
 私は何度も繰り返した。

 翌朝、所長の家を出ると、急いで自宅に戻った。実は、杏美が困っている部分がどこなのか、電話で聞いた時に、さっぱり分からなかった。
 杏美が受け持っているのは検査用のプログラムだったが、品質を保つための検査で、これで低品質のものを見抜けないと実際に現地についてから通信出来ないとか、大きな障害を引き起こしてしまう。
 自宅から一体どんな機器のどういう類のものを書いているのかを確認し、服を着替えて研究所へ向かった。
 移動中に、何度も所長からメッセージが来て、都度内容は確認したが、既読はつけなかった。
「見れない、って言ったのに」
 杏美…… 山田さんの困っているのを助けにいくから、明日はすぐに帰ります、と話したら所長はものすごく寂しそうだった。今日一日一緒に過ごせると思っていたらしかった。
『時間が出来れば、夕食食べに行きませんか』
 所長にそう伝えていた。
 だから、メッセージは何が食べたいとか、あそこの店がどうだった、とか、そういう話しが多くなっていた。
『山田さんのコードの修正が長くかかりそうだったら連絡します』
 もし、直前で夕食をともに出来なかったらどれだけがっかりするだろう、と思って先にそれを言っておいた。やはり所長は悲しそうな表情を浮かべた。
 だから、メッセージは読んでいないことにしたかった。研究所に着けばもうメッセージなんて確認しなくなるわけだし、今の時点からみていな方が、変な期待をさせなくて済む。
 研究所に着くと、奥に建設用のフェンスが作られ、鉄筋が組み上がっていた。あれが、XS証券に金を出させて作る『私の』水晶の研究所らしかった。
 デザイン画の通り、水晶のクラスターのような形が見て取れた。私は少し足を止めて想像した。
「坂井先生!」
 声をかけられて振り返ると、そこには杏美ちゃんが立っていた。
 走ってきたように息が上がっていた。
「どうしたの? 走ってきたようだけど?」
「先生と約束していたのに、遅れちゃったから……」
 私はスマフォを取り出して時間を確認したが、別に遅れたという時間では無かった。どちらかというと、私が約束より早く来ているのだ。
「お休みのところワザワザ来てもらっているわけですから。時間を無駄にしたくないです」
「そんな、いいのに」
 杏美ちゃんはニコッリと笑い返してきた。
 走ったせいか、メイクなのか、ほんのりとほおが赤かった。
 自分が歳を重ねたせいなのか、杏美ちゃんがキラキラと輝いて見えた。若い女性というのは、皆こんなにキラキラしているものなのだろうか。
「先生。何かありましたか?」
 今度はキョトン、とした表情をみせる。私は杏美ちゃんへの自分の気持ちがわからなくなっていた。
 若い|女性(こ)への嫉妬? それとも憧れ? どれとも違うような気がしていた。
 所長会って感じることとは違うけれど、何かが似ているような。
「……なんていうのかな。杏美ちゃん、ピカピカしている」
「えっ、キラキラとかじゃなくてですか? なんかちょっとイヤな感じですね」
「あっ、そうじゃなくて、ツルツルというか」
「ピカピカとかツルツルとか、ハゲてるみたい」
このエントリーをはてなブックマークに追加

 クスクスと笑う。
「ごめん。違うの。そうそう。新型のスマフォを買ってきて、箱を開けて、本体のフィルムを剥がした…… そんな感じがするの。新型スマフォの新品のような感じ」
「?」
「よく分からないよね、そういう感じ」
「ほめていただいている、ってことで|良(い)いですか?」
 こちらの表情をうかがうように体を曲げてたずねてきた。
「そうよ。もちろん」
 杏美ちゃんは、それこそ『キラキラ』とした笑顔を見せた。
「良かった…… 先生に褒められちゃった」
 気持ちが高まるのを感じた。
 この|娘(こ)といたい。ずっとこんな感じに話していたい。もっと体を寄せたい。
 自分は、この|娘(こ)に恋をしているのか、そんな気がする。
 美味しいものを一緒に食べたり、美しい場所に一緒に行ったり、楽しい映画を一緒に見たり…… 一緒なら、さらに嬉しくなる、そんな気がする。
 研究棟に入ると、杏美ちゃんは白衣を羽織って、メガネをかけた。
 検査機器を持ってきてケーブルでつなぎ、デバッグが出来る状態を作った。
 私はもう一度全体図を見ながら、この検査機器が何をすべきなのかを思い出した。
 午前中に家でみたコードが勝手に頭の中に表示される。
 ざっとしたコードの塊を眺めるなかで、不明な部分ーーおそらくバグを含むところと、その他の正常な部分に色分けされた。
「坂井先生、準備出来ました」
「まずは杏美ちゃんの説明を聞きましょうか。大まかな塊ごとに何をするのかを教えてもらって、どこが怪しそうなのか杏美ちゃんが見当つけているところも」
 杏美ちゃんが画面にコードを映しながら説明を始めた。
 説明の一部は、ソースコードのコメント部分に書かれていて、細かい部分もわかりにくいと思われると、コメントが入っていた。ソースの更新とコメントのズレもなく、良く手入れされていることがわかる。
 杏美ちゃんの横に座り、画面を見ながら少しだけ彼女に近づいた。
 見かけがピカピカしているだけではなく、杏美ちゃんの香りは心地よかった。鼻が開いてしまっているのではないか、と何度か鼻をこすってしまった。
「先生、もしかして何か私何か匂いますか?」
「あっ、違うのよ。なんか私の鼻、変なになってない?」
 杏美ちゃんが顔を近づけてきて、鼻をじっと見てきた。
「普通ですよ。何も変な感じないです」
 そのまま顔を突き出せば、そのキラツヤした唇に触れられる、そんなことを思ってめまいがした。
 その瞬間。
 杏美ちゃんが目をつぶったかと思ったらキスをしていた。
 私は自分が顔を突き出してしまったのだ、と思った。
「あっ、ご、ごめん」
「いえ、謝るのは私です。坂井先生のお顔が可愛かったから、つい唇を寄せてしまって」
「えっ、あっ、そんな可愛くなんかないわよ。おばさんだし」
「そんなことないですよ。でも、突然キスなんかしたら嫌ですよね、ごめんなさい」
「いいの。謝らなくていいのよ」
「けど、女の子同士でキスなんて」
 杏美ちゃんの手が少し震えているのがわかる。
「そんなの普通よ、普通」
 私の中で、パチパチと電荷がはぜるように飛び散って、興奮状態にあるのが分かる。
 なんで杏美ちゃんはこんなことをしてくるんだろうか。単純で難解な疑問が浮かぶ。
 本当に行った通りの戯れか、それとも……
「コードの説明はこれで終わりよね」
「そうですね」
「じゃあ、私の考えを説明するわ」
 コードとコード。プロシジャーとプロシジャーの同期。
 おそらくそこが杏美ちゃんの予想とは違うタイミングに起こっている。
 ソースコードを指し示しながら、二つの箇所が想定じゃないタイミングで動いた時に、互いに影響を受けてしまうことを説明した。
 杏美ちゃんは最初はどうして想定しているタイミングで処理が発生しないのか理解できないようだった。何度かそのイベント条件を噛み砕いて説明すると、想定しているタイミングでも起動されるが、そうじゃない時にも起こりえることに気がついた。
「ありえます。そうですか、それなら、ここの値が」
「そうそう。あと、これもタイミングに影響受けるわよ」
「あっ、そうですよね。わかりました。少し考えてみます」
 あらかじめ分かっていた部分、説明を受けて分かった箇所を順に指示して杏美ちゃんの修正に任せることにした。
「じゃあ、邪魔にならないように向こうの部屋に……」
 杏美ちゃんの手が震えた。
「坂井先生」
 手を重ねてきた。行かないで、立ち上がらないで、といわんばかりだ。
「えっ?」
 手を抑えただけではなく、杏美ちゃんは私に抱きついてきた。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 なんだろう、今までの杏美ちゃんもずっとこの気持ちを隠していたのだろうか。
「坂井先生、行かないでください。ここで見ていてください」
 そ、それだけ?
 何かもっと重大なお願いをされるか、、重要な告白をされるのだと思っていた。
 それが、ここで見ていて、だけ……
 私は静かに座り直した。
 杏美ちゃんも、引き止めた恋人をほったらかすように、パソコンに向かってコードの見直しを始めた。
 しばらくすると、杏美ちゃんが口を開いた。
「ここの判定文はこれでいいんでしょうか?」
「ちょっと見せて」
 何もロマンティックではない。
 恋愛要素のかけらもない。
 あの引き止め方と結びつかない。
 私は余計なことが気になって判断文の条件を冷静に見直せなくなっていた。
 少しキーボードを借りて、前後を確認している振りをしていると、冷静さが戻ってきた。
「これね。この変数の意味が合っていればOKなんだけど、この行の処理が違うのよ。だからこの判定文でおかしくなるの」
「あっ……」
 本当に気がついていないのだろう。
 プログラムを書く時と、読む時では見ているポイントが違う。やっぱり冷静になって読み直せるかが重要だ。
「少し休むわね。戻ってくるから」
「は、はい」
 給湯室でコーヒーを入れ、自分の研究室の椅子に深く座った。
 私は抱きつかれて頭がおかしくなっている。
 コードを見る為だけではなく、自分自信を冷静に見直さないと行けない気がしていた。杏美ちゃんの行動には何か理由があるような気がするからだ。
 XS証券の林に何か言われた?
 中島所長に何か指図を……
 上条くんと何かあった?
 どれもマトモな答えとは言えない。
 組み合わせても全く理由にならないものばかりだった。
 人を好きになるのは突然ということはありえる。好きか嫌いか、で、嫌いから好きになったりもする。けれど何でもないところから、突然好きになるのだろうか。好きに変わる前に、予兆はあるのではないだろうか。
 私は杏美ちゃんが何かサインを出していなかったか、もしくは今の杏美ちゃんから本当はどう思っているのか、を引き出したかった。
 過去の言動を思い出しても、私に気があるとか、女性が好きだ、という印象は全くない。
 二人きりになったから、抑えられていた感情が爆発した?
 研究の途中、何度か夜遅い時間に二人きりになったことがある。なぜその時にはときめくような出来事がなかったのだ。
 いや、単にこの若いぴかぴかした娘の気持ちを、私が素直に受け入れられないだけなのではないか、と思い始めた。
 素直に受け止められないのも無理はない。
 年の差があるし、立場も違う。
 これが逆に、私が一方的に杏美ちゃんを好きになったと言うなら合点がいく。私は立場を利用して杏美ちゃんと二人きりになれるし、体に触れたい場合に、立場の違いを使って強制出来るだろう。それが正しい解決方法かは別として。
 とにかく、杏美ちゃんが私を好きなのだとして、私がそれを受け入れれば、外で会った時に感じた、きらきら、つるつるしている、この若い娘と、一緒に食事にでかけたり、若い肌を飽きるほど眺めてみたり出来るのだ。
 少し考えても杏美ちゃんを嫌う理由はなかった。
 好きになる理由はやまほどあった。
 ただ、気持ちが納得できなかった。
『読んではいけない』
 私は例の女性の幻だと思って立ち上がった。
 しかし、どこにも何も見えてこない。
『あなたは死んでしまう。決して読んではいけない』
 気配がある。見えないが、確実にいる気配があった。
 これは、幻のような女性とは異なる感覚だった。
「読め、と言っていた|女性(ひと)とは違うの?」
 私は声に出してそう言った。
 どうすればその気配だけの人物に伝えることができるのか、分からなかったからだ。
『読んでしまえば、あなたは体を失う』
 体を失う、だって? さっきの死、と同じ意味だろうか。体を失う、つまり、死んでしまうから、読んではいけないのだ。
「アレは何なの? 何が書いてあるの?」
『水晶…… 水晶のコード』
 そう。
 あの女性も同じことを言っていた。
 水晶の動作コード。
 世界を記述したコードがある、と言っていた。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 私が読むのは水晶のコード。水晶の動作をどうするのだろう。
「大丈夫、私、読み方なんか分からないから」
『誰っ!』
 杏美ちゃんが入ってきたのか、と思い振り返った。
 誰もいない。
「……」
 元に向き直るも、その気配も消えていた。
 姿は感じられないが、確実に気配はあったのだ。
「なんだろう。読め、と言ったり、読むな、と言ったり」
「先生、ちょっといいですか?」
「杏美ちゃんどうしたの?」
「来てください」
「分かったわ」
 杏美ちゃんのいる実験室へ踏入り、元居た研究室の灯りを消した。私はその小さな暗闇をみて立ち止まった。この小さな暗闇で起こっている何か。その何かに巻き込まれ始めている。そんな気がした。



 杏美ちゃんの検査プログラムの修正が終わり、ふたりは立ち上がって伸びをした。
「は〜、終わったね」
「先生のおかげではかどりました。ありがとうございます」
「久々に集中した感じ」
「退院したばかりなのにこんなご無理をお願いしてすみませんでした」
「いいのよ」
 入院中も結局コードを書いていたも同然だったし、退院の日を狙って押しかけてくる社長とかもいたから…… と心のなかでつぶやいた。
「お礼といってはあれなんですけど、食事に行きませんか。お、おごります」
「食事行きましょう。けど、いいのよ、おごらなくても」
「えっ……」
 杏美ちゃんの手が震えていた。
「じゃあ、やっぱりそういうことですか」
「?」
「……」
 杏美ちゃんは少しうつむいた。
 なんだろう、今日はこの手が震えているところを何度か見ている。
 緊張とか、そういうことなのだろうか。
「どうしたの、杏美ちゃん。今日……」
「平気です。先生が喜ぶなら、私大丈夫です」
「?」
「そうと決まれば、早く行きましょう。私、お腹ペコペコなんです!」
 杏美ちゃんに腕を引かれた。
 手が震えた後は、表情も行動も自然に思えた。
 気になる発言がいくつかあるが、あまり突っ込まないことにした。
 それが杏美ちゃんの緊張につながっているような気もしたからだ。
 二人で駅の反対側の和食屋に入った。
 料亭まではいかないが、居酒屋までくずしていない、キレイ目な店だった。
 私達は畳の個室に入って、向かい合わせに座った。
 おすすめのコースと、お酒を頼んで食事を始めた。
「どうですか」
「美味しいね。どこでこの店知ったの?」
「ネットで見て、いいなぁって思って上条さんとかに見せたら、行こうって言って一度来たことがあるんです」
「へぇ、上条くんと飲みいったりするんだ」
「たまたまですけどね」
 少し料理の間隔が空いた時に、飲み過ぎたのか、杏美ちゃんが私の隣に座ってきた。
「上条さんて、少し強引なところがあってそこが嫌なんです」
「そう? そんなに強引だったっけ」
「隠れてプレッシャーかけてきたり、陰湿なんですよ」
 本当に自分の知っている上条くんとは違う。ウワサでもそういう話は聞いたことがない。
「先生…… 助けてください。坂井先生……」
 そう言って杏美ちゃんが私の肩に頭をのせた。
 酔ったせいのか、本当に助けを求めてきているのか判断がつかなかった。
 店員が障子を開けて入ってきても、杏美ちゃんは寄りかかった姿勢を正そうともしなかった。
 テーブルは片付けられ、残るのはデザートという状況になった。
 杏美ちゃんは半分寝かけていた。
「杏美ちゃん、お家どこだっけ? 大丈夫?」
「まだダメです……」
 杏美ちゃんはデザートが出てきても手も着けない状況だった。
「ほら、しっかりして、住所は言える?」
「先生、私の家に止まっていってください」
「立てないの?」
「家まで連れてってください」
「そうするから、ね。ほら、立ち上がって」
 私はなんとか杏美ちゃんを抱き起こすと、店に呼んでもらったタクシーに一緒に乗った。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 とにかく、部屋までは面倒みないと……
 タクシーを走らせ、杏美ちゃんが告げた住所についた。
「ここで合ってる?」
 杏美ちゃんはうなずいた。
 タクシーの支払いをすませると、肩を貸してマンションへ入った。
 なんとか部屋の前について、亜美ちゃんが鍵を開けた。
「ふぅ…… もう大丈夫よね。私ここで……」
「まぁってください…… 先生っ」
 私の肩から滑るように体が落ちていった。
「危ない!」
 そのまま倒れたら杏美ちゃんが頭を床に打ちそうだった。
 私と杏美ちゃんは一緒に倒れ込んだ。
 杏美ちゃんの頭を支えた手が床に打ち付けられて、ひどく痛かった。
 オートロックの扉が閉まった音がした。
「先生、好きです」
「えっ?」
 杏美ちゃんが顔を寄せてきて、キスされた。
 柔らかくて、とても良い香りがする。
 合わせた体の温もりが、私の中のスイッチを入れた。
 杏美ちゃんから舌を入れてきた。拒む理由はなかった。
 自分の腕の中にいる子が、酒に酔った面倒な部下、ではなく、以前から気になっていた若い娘に変化していた。
 何も言わず二人は寝室に移動していた。
 一分一秒を争うように服を脱ぎ捨て、二人は裸で抱き合った。
 杏美ちゃんの体は、きめが細やかで吸い付くようだった。足をすり合わせようと、杏美ちゃんの太ももが私の股間に押し行ってきた時、その肌の感触だけでイキそうになった。
 私は杏美ちゃんの後ろに回り込み、背中にぴったりと体をくっつけた。そしてあぐらを組むように座ってから、私の足で杏美ちゃんの股を開いた。
 左手を下から持ち上げるように乳房に触れ、右手を杏美ちゃんの足の付け根あたりから、じっくりと撫でていった。
 杏美ちゃんは体をねじってキスを求めてきた。
 私はそれに応えようとしつつも、杏美ちゃんの背中から離れないよう、自分も体をひねっていた。
「あっ…… あっ」
 唇が離れる度、杏美ちゃんから吐息が漏れた。
 怖がっているのか、体から緊張が伝わってくる。
 けれど、その緊張と快感のギャップが、まるで痙攣しているかのような反応を示している。
 私もとても興奮していた。
 杏美ちゃんが跳ねるように体をビクつかせる度、そのお尻が私の股間に押し当てられたからだ。杏美ちゃんが動かないときは自分から腰を押し付けた。
 ふと、冷静に自分と杏美ちゃんの位置を考えた時、まるで杏美ちゃんをギターにして引いているように思えた。左手で弦を抑え、右手で掻き鳴らす。
 杏美ちゃんののけぞる間隔が短くなってきて、私も体をそらして背中をベッドにつけた。
「イク…… 先生…… 先生…… あっ……」
 一段と腹部の痙攣のような動きが早まり、自分の腰へも杏美ちゃんのお尻の振動が伝わってきた。奥へ指を入れられないのに、半ばイキかかってしまうのははじめてだった。
「杏美ちゃん、杏美ちゃん!」
 私も杏美ちゃんをせめながら、何度も何度も股間を押し付けていた。
 何度か小さい盛り上がりを終えると、杏美ちゃんが体をひねって向き合った。
 舌を絡めながら、ゆっくりとキスをすると、杏美ちゃんは私の体の上からおりて仰向けになり、目を閉じた。
「えっ?」
 思わず声を上げてしまった。
 あっという間に、杏美ちゃんは寝ていた。
 私は少し物足りなさを感じながら、上を一枚羽織り、ダイニングを探した。
 コップに水をくみ、床にある小さな照明で照らされている中、それを飲み干した。
 部屋の玄関の方へ、服やカバンが散乱しているのに気づき、私はそれを拾って回った。リビングのテーブルに二人の荷物や服をまとめて置くと、ゴトリ、と何かが落ちた重い音がした。
「杏美ちゃんの?」
 落ちたと思ったものはスマフォだった。手に取った瞬間、ブルブルとバイブレータが動いた。
「これ…… どういうこと」
 ディスプレイにメッセンジャーソフトの通知表示がされていた。
 私も知っている人物からだった。
 何も考えられなくなった。
 もう夜は遅く、電車では帰れなかったが、私は寝室に戻って服を身につけると、リビングに置いたバッグを持って部屋を出た。



 なんだろう。
 通知の人物が分かっただけではない。
 メッセージの内容も読んでしまった。
 偶然とはいえ、杏美ちゃんの個人情報を見てしまったのだ。私の方が悪い。
 見たことを忘れてしまえばよかった。しかし、知ってしまった事実を忘れることなんて出来なかった。そして、その事実を知れば、そのまま杏美ちゃんのベッドに戻って寝る気分にはなれなかった。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 タクシーの運転手に住所を告げるとナビに入れていた。
 もやもやとした気分のまま、私はぼーっと外の景色をみていた。
『お客様、困ります』
 何が困るというのか、と思い私は運転手の方を見た。
『そういうものを後部座席に乗せると、シートが痛むんですよ』
『なんのこと?』
 言いながら、目の端に入っていた金属の光を確認した。
『……か、カッチュウ?』
 私の隣に置かれていたのは金属製の鎧だった。
 人の姿のように積み上がっていた。
 いや…… 待て。
 空じゃない、中身が入っている。
『ガシャッ!』
 ヘルメット部分が開いて、こっちを睨んだ。
 彫りの深い西洋人のような目元だった。
『お客さん、その甲冑のせいで燃費がガタ落ちだ、料金倍払ってもらいますよ』
『私が乗せたんじゃないわ、最初から乗っていたんでしょ?』
『トモヨ、ここは危険です』
『なんで私の名前っ……』
 その時、甲冑の男が私の後頭部目掛けて腕を差し込んできた。
『伏せて!』
 ガツン、と大きな音がした。車の後部ガラスが割れ、破片が散った。
『何!』
 振り返ると、甲冑の男の腕が、尖った槍のようなものの先端を握っていた。
 ガツガツと|蹄(ひづめ)の音がする。
 左を向くと、少し後ろに鎧を付けた馬が走っていた。
『これはランスという武器で……』
 言うと、槍は引き戻された。
 甲冑の男は後部ガラスを振り払って、半身を乗り出した。
『違う! そういうことじゃなくて!』
 後ろに甲冑の男が来たために、助手席の背もたれにしがみつきながら、そう叫んだ。
『どういうことです?』
『馬にのっている奴と、あなたは何!』
 車に槍を振り下ろしているらしく、ガツンガツンと金属が歪んでいく音がする。
『トモヨを女王にしない為に、暗殺者が動き出したのです。私は現女王の近衛兵』
『王女? 暗殺者? 近衛兵?』
 タクシーの運転手が叫ぶ。
『お客さん! 暗殺者とか、近衛兵とか物騒なものはお断りなんだけど!』
『こっちだって知らないわよ!』
「お客さん!」
「知らないって言ってるでしょ?」
「お客さん、着きましたよ。起きてください!」
「?」
 カチカチカチとハザードランプが点滅する音が聞こえる。
 後部のガラスはしっかりとはめ込まれている。
 甲冑の男も、馬から槍を突く男もいない。
 幻? 全くの幻影と幻聴…… 私、どうかしてる。
「ここでよろしいですよね?」
 窓の外をみる。
 自分のマンションの玄関口についている。
「……は、はい。カード使えますか」
 なんだったのだろう。
 自分は寝てしまったのだろうか、けれど、意識が切り替わったような境目に一切気づくことがなかった。それとも、まだどこかこのままさっきの世界につながっているのだろうか。
 私はタクシーの支払いをすませると、前後左右を警戒しながらゆっくりと車を降りた。
 深夜のこの道は、車も人通りも殆どなかった。
 ちょっと先で信号が黄色く点滅しているだけだった。
 タクシーは、ゆっくりとUターンして元来た道を戻っていった。
 何も動くものがなくなった道を眺めていると、さっきの蹄の音が聞こえてくるような、そんな幻聴に襲われた。私は走ってマンションに逃げ込んだ。
 部屋に入ると、机に座ってノートパソコンを開きかけ、そのまま閉じてしまった。
 メールとか、メッセージとか、他の人とのつながりを確認したくなかった。
 すくなくとも今は見たくない。
 そのまま立ち上がってベッドに倒れ込むと、仰向けになって目を閉じた。

 

『読んではいけない』
 背後をとられている。誰も姿は見えない。
『あなたは死んでしまう。決してアレを読んではいけない』
 気配がある。見ないということは、やっぱり背後だ。
『あなたは、読め、と言っていた|女性(ひと)なの?』
『読んでしまえば、あなたは体を失う』
このエントリーをはてなブックマークに追加

『だから、あなたは、誰?』
 甲冑が突然正面に現れて、私に向かって剣を突いてきた。
 避けるような反射神経がなかった。目を閉じるのが精一杯だった。
『女王の近衛兵……』
 後ろからそう聞こえた。
 私は目を開くと、キラキラ光る剣が左肩の上にあった。
『読んではいけない。あなたの世界に災いが起こる』
『……』
 背後の気配が消えた。
 剣を収めると、甲冑の人はヘルメットを開けて、目を見せた。
 すべてを覚えているわけではないが、この甲冑の人は、タクシーで現れた近衛兵だ。
『大丈夫ですか?』
『いきなりだけど、聞いてもいいですか? ダメと言っても聞きますけど。これはなんなの、私の後ろに居た人は誰?』
『現女王の姉です』
『姉? 普通、姉が女王になるものではないの?』
『姉には女王になる力がなかった』
『力? 何それ、能力ってこと? 社交性とか?』
 こちらの常識で何か答えがでるとは思えなかった。
『しかし、あなたには……』
『?』
『すみません。干渉を禁じらているので、私はこれで失礼します』
 近衛兵は一瞬のうちに姿を消した。
 干渉…… もう充分干渉しているじゃない。私の質問に答えてよ。
 力、がなんのことか分からない。
 けれど、読め、読むな、と言っているのなら、あのコードに関わるものだ。
 コードを読むことが出来る、出来ないの違いだろうか。
 姉は、読んだら死ぬ、と言っている。
 妹は読め、と言っている。
 妹の近衛兵はタクシーで襲われた私を守った。私を守った?
 ということは、姉が私を襲わせている、と考えるのが正当だろうか。
 読んだら死ぬ、とか世界に災いが、とか。つまり、読んだら『姉』は女王にはなれない。
 待って! 私が読んだら、私に読む『力』があったら、私が女王になるとか、そういうことなのだろうか?
 自問自答しながら、起こった出来事を整理していた。
 もう一人の自分が、その事が無駄だと気づく。幻の世界の女王が誰になろうと、現実の私は全く関係ないじゃない。
 その通りだ。
 きっと疲れているのだ。
 なんとなく、受け入れてしまっていたが、電車の中で読む小説の世界のようなものだ。
 エンターテイメントの世界だ、小劇場で広がる、人生とは別の、空想の世界。それと同じだ。私が見ている夢、と言ってもいい。
 そんなことを考えても、現実は何も変わらない。
 楽しい夢に逃げるのはよそう。
 早くお金を用意して、手術を受け、治療を始めなければ。
 重く、苦しい気持ちが、私の心を暗くしていた。



 光ファイバーが特定の条件下でファイバーフューズという現象を起こす。
 今の証券取引は某国のルールのまるまま受け入れたためにHFT(高速株取引)が主体となっていた。これはアルゴリズム取引だけではなく、取引所と取引所の間を早く情報を渡したものが勝つ、という単純な面もそなえていた。
 先回りして利鞘を稼ぐ、一瞬のインサイダーとも言えるが、まさかこのコンピューターの一瞬の処理速度や、光ファイバーの通信の遅れが株取引に影響すると考えていなかったのだろう。それは制度の抜け穴である。
 その制度の抜け穴においては、速さが勝負を決める。今、この株取り引き中でファイバーフューズが起こったら…… のろのろともう取引が終わったクズ株のマヌケな取り引きだけが残ってしまう。だから、XS証券は高トラフィック下でも安定した光ファイバーが欲しかった。
 そういうことか。私はXS証券が今回の共同研究に関してだしたIR情報を改めて読み返し、一つ一つの謎のキーワードを調べるなか、ようやく証券会社と光ファイバーの関係を理解した。
 この株取り引きの世界で、何百倍ものデータを流しつつ、ファイバーフューズというトラブルとは無縁、だとしたら。
 まさにHFTをするための光ファイバーと言える。
 XSの林が上条くんに作らせていた部分…… 結局、私が作った部分でもあるが、いわゆる『アルゴリズム取り引き』をする部分だ、ということも分かった。
 多数が売る時には売り、多数が買う時には買う。利益がでたら、値動きの鈍い、別の株に移る。ウォッチする為に様々な株を定期的に少量ずつ売り買いしながら、値動きを監視する。ある基準の値動きを超えたら、多数が売るなら売り、買うなら買う、という動作を始める。
 林から出された暗号文のような指示は、もっと変なことがいっぱい書いてあったが、大まかな動きはそうだった。特定株で基準の利益を上げたら、即時に動きの鈍い株へ分散する。その二つのモードの繰り返しだった。
 書いてみたが、面白みのないコードだった。
 しかし、多数が売る時に売り、多数が買う時に買う、という動作には様々な例外が書き加えられていた。
 安くなる株を更に売って、最終的に利益を確定する為に、空売り、という注文をだす。他の多数が買う時に買うが、一定の根付になったら今度は一気に売り始める。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 もしかすると、どの証券会社も同じロジックだったら、と思うとゾッとした。
 売るなら売る、買うなら買うを加速させ、急激な株価のカーブを描き、その会社が傾くほどの株売買をしてしまうのではないか、と。
 興味を持った私は自分で複数のインスタンスを作って同じ取引所にアルゴリズム取り引きが動き出している実験をした。何度か実施したが、殆ど株価は波立たなかった。実際の株式市場にアルゴリズム取り引きが複数存在しても同じはずだ。
 だとしたら、現実で似たような過激な株価のカーブは、だれの仕業か。考えた結果、株価の激しい変動のトリガーを引くのは、多分、人間の売り買いなのだ。
 自動取引で怖いのは取引停止になるほどの安値や高値であって、その前に利益を確定しようとする。だから、乱高下の一番損をする部分、というのは人間が後乗りでやってきて行ういるに違いない。私はそう結論づけた。
 ただ、自動取引は人為的であるが為に、きっかけのカーブがなだらかな上昇や、なだらかな下降にならない。その変化が人の目に捉えられる大きさだった時、人が後乗りで動き出し、大きな株価の動きになる。
 目隠しをした人の臆病は動きよりも、目を開いている人がするスポーツの中での方が、衝突した時の度合いが激しいようなものだ。
 ノックの音がした。どうぞ、というとドアが開いて杏美ちゃんが顔を出した。
「坂井先生、中島所長がいらっしゃいました」
「わかりました、すぐ行きます」
 タブレット端末を手にとって、近くの打ち合わせ室へ向かった。
 打ち合わせ室は空調をいれていないせいか、蒸し暑かった。灯りを付けて空調を入れると、ノックの音がした。
 ドアを開けると、中島所長が三人ほどの業者をつれて待っていた。
「どうぞ」
 席につき名刺の交換が終わったところで相手が話し始めた。
「新しく出来る研究棟ですが、入退室について厳しくコントロールなさりたい、との要望がありまして、案をつくってまいりました」
 タブレットで配ってあった資料をみると、研究棟のフロア毎の図面があった。そこには権限のレベルが書いてあった。
「この図面に書いてあるレベルに応じて、扉の開閉の許可がつけられます。レベルは三段階。一般事務の方、研究員の方、室長以上の方、としています」
 そういうと、個人にどういうレベルをつける予定かが書いてある資料を見るようにと案内された。
 その資料を表示させると、室長以上の氏名が書かれたリストに、権限のレベルが併記されていた。
「……ダメね。私にはもうひとつ上レベルをつけて」
 所長がそう言うと、業者の人はお互いの顔を見合わせた。
「……」
 図面を見てくれ、と言った後、真ん中に座っていた人が切り出した。
「どの部屋に入らせたくないのですか? 部屋の意味的にはこのレベル以上を付けても意味はありません?」
 確かに、図面上、入室のレベルは3種類しかない。この室は所長のカードだけでしか開閉しない、という部屋があれば意味はあるのだが。
 所長はタブレットで何か資料を探しながら話し始めた。
「カード操作を徹底させる為に、操作しないと出たり入ったり出来なくする機能があったわよね?」
「……」
 業者はまた顔を見合わせた。
「……あった。アンチパスバック。私はこれを無効にして」
 業者は安堵したように言った。
「分かりました。一つレベルを高くして、所長様はアンチパスバックの対象外とします」
「そのアンチパスバックってなんですか?」
「坂井先生にもお渡している資料の機能編のこのページに記載して……」
 もう一人の業者が割り込んできた。
「簡単に説明しますと、カード操作なしで部屋を出たら入れなくなり、カード操作なしで入ると出れなくなる機能です」
「扉が開いていても操作がいるということですか?」
「そうなります」
「随分不便ですね」
 業者は苦笑いしていた。
「本来、研究室だから、これくらいのセキュリティは当然なのよ」
 所長は権限は強いがセキュリティレベルが低い、ということになる。
「けど、所長はセキュリティレベルが低くていいんですか? カード取られたらそれこそ抜け穴になってしまいますよね?」
 業者はまたお互いの顔を見合った。
「それでしたら、落とさない方法がありますよ」
「どういうことです?」
「生体認証です」
「具体的には? 指紋はもう懲りましたから」
 業者は引きつったような笑顔になった。
「大丈夫、今回は指は指でも静脈を認証しますから。それとも虹彩でもいいですよ?」
 業者は自分の目を指さしていた。
「いくら違うの? 金額によるわ」
 中島所長がタブレットに概算見積もりを表示させ、そこをコツコツと叩きながら言った。
「一台につき四万……」
「三倍じゃない。カードのままでいきます」
このエントリーをはてなブックマークに追加

 私は気になってたずねた。
「カードを落とした時はどうすればいいんですか?」
「管理用のサイトにアクセスして当該のカードを使用停止にすればいいんです」
「管理用のサイトって、まさかインターネット上?」
 業者はシステム構成図を見せながらいった。
「研究棟の中に置く予定です。インターネット側からの口は作らない、と聞いています」
「わかりました。所長、なくしたら使用停止にしますから」
「……まず、なくさないわよ。今のカードだって無くしたことないんだから」
 業者がうなずいた。
「まあ、いいわ。じゃ、この計画で行きましょう」
 私はうなずくしかなかった。
 所長は業者と水晶の研究棟を見て回るから、一緒に来ないか、と言った。私もこのまま研究室にもどってやることもなかったので、ついていくことにした。
 内装はまだまだこれからとのことだった。
 全員でヘルメットを被り、内装工事しているところを右に左に避けながら進んだ。
 扉がついているところもあったが、まだ実際に設置されていないところもあり、業者はポイントで立ち止まって図面に何か書き込んでいた。
 私は私で図面を見ているのに自分の居場所がわからなくなっていた。
「所長、なんでこんなに複雑な構造なんですか?」
「別に複雑じゃないでしょ? 工事しているから見通せてないだけよ」
「図面をみていると、完成したら、この状態より複雑になりそうじゃないですか」
「実際に歩いて覚えればいいのよ。私はもう何周もしたから図面見なくてもあるけるわよ」
 私は自分の実験室まで行ければ、とりあえずそれで用は足りる。それ以上のことは後で覚えようと思って諦めた。
 この規模の研究棟をつくるということは、いままでの研究棟からほとんどの研究室をこちらに移転させるつもりだ。
 古い棟はいずれ別の用途の建物にするのだろう。
「!」
 何か、後ろに気配を感じた。
「どうしたの? 行くわよ」
 怖くて振り返れない。何か先の鋭いものが背中たに突き立てられている。
「私の後ろに誰か居ますか?」
「居ないわよ?」
 私は一歩前に踏み出した。すると、その気配が急になくなった。慌てて振り返るが、所長が言った通り、そこには誰もいなかった。
「システムを入れる箇所を一通り回るから、急ぐわよ」
 所長の早足に、業者の人もついていくのが大変そうだった。
 私は半ば走りながら、ついていった。
 曲がり角にくる度に後ろを振り返るが、やはり誰もいなかった。
「ここが坂井先生の研究室ね」
「だいぶ上のフロアですね」
「上にあるだけじゃないわ。かなり中心部にあるのよ」
 タブレットで確認した。
「えっと、ここに来るまで何回カード操作しなきゃいけないですか?」
 業者の人は即答した。
「七回です」
「な、七回?」
「何驚いているの?」
「研究室に入るのに七回もカード操作なんて……」
 私は思い出した。開いているからと言って操作をしないで入ると閉じ込められるのだ。
「念の為聞きますが、途中でカード操作を飛ばしたらどうなるんですか?」
「たとえば、ここで操作わすれたら、この色が変わったエリアに閉じ込められます」
「……」
 真剣にそのエリアを追ったが、何もない。抜け道がないのだ、誰かに合わないかぎり変な空間で閉じ込められてしまうのだ。
「大丈夫です。これも管理用のサイトで復旧することができます」
「けど、こんなところにはパソコンは…… もしかして、タブレットからも?」
「もちろんです」
 いや、逆に普段はタブレットを持ち歩かないから、その時はアウト、ということだ。
 まだ何も汚れていない真っ白で綺麗な廊下が、私にとっては牢獄の壁のように見えてきた。
「事務の方に電話して復旧してもいいですから」
「そもそもカード操作をわすれなければいいのよ。開いているからって、飛び込まないの」
 所長が当たり前のことを言った。
 しかし、当たり前のことがなかなか出来ないのが人間だ。私は特にそういう傾向がある。
「……」
「じゃあ、先に来ましょう」
 中島所長は建物内の残りのエリアを案内して回った。私もついてあるいた。何がどこに取り付けられるとか、そういう情報はよく分かっていなかった。
「一応、主装置をつけるところはここでお願いします」
 既にサーバラックが幾つか立っている。
このエントリーをはてなブックマークに追加

「ここはサーバールームじゃないんですか?」
「そうよ」
 業者もうなずいた。
「え? カード装置の主装置ってなんですか?」
「サーバーパソコンになります」
「パソコン? そんなので……」
「大丈夫、ここは電源バックアップもされている。それこそカードでサーバーラックも制限してるのよ?」
「カード操作しないとサーバーラック開かないんですか?」
 業者と所長がうなずく。
 端のサーバーラックのところにくると業者が指差した。
「ここにカードリーダー装置をならべて、それぞれの許可されたカードが操作されたら、それに相当する場所のラックの鍵が開きます」
「なるほど」
 確かにここまで入ってしまえばやり放題になってしまう。ここでも時間稼ぐための防衛手段が必要だ。これだけしっかりしたラックを壊して操作しようというのは相当時間が掛かる。
「私はサーバーラック開けられますか?」
 タブレットを見ながら、自分の権限をみていたが、どこがこのサーバーラックについてなのかが分からなかった。
「えっと、坂井先生は、開けられますね。何個か権限がありますよ」
「このシステムのラックも開けられます?」
「開けたいなら、私にいいなさい。権限つけとくわ」
 所長がムッとして言った。
「あっ、お、お願いします」
「ということなので、お願いね」
「はい、承知しました」
 そう言いながら、業者は何かメモをとっていた。
 エレベータが作業で専有され、殆どこなかった。
 この棟を殆ど塗りつぶすように歩き回って疲れのせいか気分が悪くなっていた。
「所長、みなさん、私はここで」
 工事中の研究棟を出るなり、私はそう言うと、軽く会釈して構内の自動販売機で水を買い、ベンチに腰掛けた。
 ペットボトルを開けようとした瞬間、また背後に気配を感じた。
「!」
 何か鋭いものが首筋に突き立てられているような感覚。
 またあの甲冑男の幻覚か『読め』『読むな』の続きだろうか。幻覚ではないか、と疑いつつも、ベンチの背もたれに背中をつけるような行動はとれなかった。
 万一、幻覚ではなく本物なら、串刺しになって死んでしまう。
 私は恐る恐る後ろを振り返った。
『幻覚ではない』
 そう言うと甲冑の男は、私の首をつついていたと思われる長槍を、まっすぐ上向きに持ち替えた。
「なんなの? 何がしたくて私につきまとうの」
 こんなことを一人で話しているのを、誰かに見られたら気が狂ったと思われてしまうだろう。タクシーの時と同じだ。きっと私以外にはこの人の姿は見えない。
『私は女王の命令により貴殿を守っているだけだ』
「守っている? 私は病気なのよ? ほっておいても死ぬわ」
『……』
 表情を変えない甲冑の男に、私の中で何かが弾けた。
「守っているとか言って、私を|囮(おとり)にして馬に乗っていた男を倒そうと思っているんじゃないの?」
『違う』
「私の命なんて関係ないんでしょ? じゃあなんで私を刺そうとしたの?」
『あれは貴殿の意識下に、こちらの存在を感じてもらう為の方法にすぎない。脅したように感じるのなら、謝罪する』
 頭を下げた。同時に、ヘルメットの目隠しが下がった。
『くるぞ。私が相手をするから、貴殿は動かないでいい』
「死にたくなかったら動くけど」
『どうせ病気で死ぬ、というのであれば、度胸を決めてここを動くな』
 甲冑の男は姿を消した。
 研究所の中庭とは思えないほど、木々の葉が生い茂り、辺りに暗い影を落としていた。
 じっと見回すが、研究棟らしきものが見えなくなっていた。
「まさか……」
 慌ててスマフォの地図で確認すると、一面が緑で表されていた。
「どういうこと?」
 地図の縮小をどんどんかけていくと、研究所の住所とは全く違った。いわゆる別荘地と呼ばれる地域の地図だった。
 自分が座っていたベンチもよく見ると古めかしい装飾が付けられている。
 どこかの大金持ちの別荘の庭? だろうか。
 馬のいななく声が聞こえた。
「来た……」
 音ではどこに馬がいるのか全く判断がつかなかった。
 さっきまでと違い、少し寒い。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 動かなくていい、と言った。
 動くな、とは言われていない。いや、うごくな、とは言ったが、度胸をきめてと条件付きだ。
 このままじっと座ったまま死んでしまうのはいやだ。
 私は少し草木が払ってある方向へ歩きだした。
 すこし歩きだすと、空気の冷たさが心地よく感じてきた。
 歩いていると、木々の間に黒い木材で出来た建物が見えてきた。
 そんなに距離は離れていない。
 馬の歩く音や声、人の声もしない。ならば、その建物に行ってみよう。
 誰もいなくて、入れるなら、入って隠れよう。私はそう考えた。
 建物に近づいてくるとそれは大きなロッジだった。
 いかにも別荘風だが、使われている素材が全て黒く塗られていた。
 隙なく整然としており、管理が行き届いているように見えた。
 入れそうにない、と私は感じた。
 突き出しているベランダの下に入って身を隠そう、それならば問題ないだろう。私は下に潜りこんで、木の柱に背中を預けると、そのまま寝てしまった。



 気づくと、辺りは真っ暗だった。
 スマフォを見ると、夜半過ぎていた。
 充電の残りは後わずか。物音は何もしない。別荘風の建物には全く灯りがつかない。不在のようだ。
 ふとスマフォで地図をみると、さっきまで避暑地だと思っていたものが、研究棟のごく近所であることが分かる。
「うそ、こんな地名が」
 思わず立ち上がろうとして、ベランダの床に頭を打った。
 とにかくここを出よう。
 避暑地ならともかく、都心で迷い込んだと言い訳するのは無理がある。スマフォで照らしながら歩いて床下を抜けると、同時にスマフォのバッテリーが切れた。
 床下を抜けたとはいえ、ロッジ側からも灯りがなく、暗い庭をどうやって抜けてよいのか分からなかった。
 家側に戻って門を探すしかない。
 足元の起伏につまずきながら、よたよたと歩いていくと、家の反対側についた。
「そこまでだ」
 首筋に冷たい金属を当てられた。
 私は事態が飲み込めなかったが、両手をゆっくりと上げた。
「何のようでここに入った?」
 低い、男の声ようようだった。
 答えようのない質問に、どうやって答えろというのか。正直に答えるしかなかった。
「研究棟の庭を歩いていたはずだったのですが」
「研究棟? そこの大学か」
「ええ、理由はわからないんですが、迷ったようにここについたみたいです」
「残念だが、家の庭と研究棟はつながっていない」
 カチャリ、と首すじに当てられたものが音を立てた。
「待って、私をどうしたいんですか? この首に当てているのはなんですか?」
「知りたいか? 知りたきゃ振り返ってみな。ゆっくりな」
 腕を上げたまま回れば、もしかしたら。
 私はゆっくりと回り始めた。
 四十五度ほど回ってから、顔を後ろに向けると、首に当てられているのが猟銃のようなものだと分かった。腕を下から回り込ませて、向きを変えれば……
「そこで止まれ。見えたろう? それ以上回るならぶっ放す」
「待って待って、止まるから」
 今引き金をひかれたら間違いなく頭が吹っ飛ぶ。
 見えない時より、本当の猟銃だと判ったせいで恐怖が増したようだ。
「こ、殺してどうするの、何も持ってないわよ」
「不法侵入者は殺しても構わないだろう。死体は庭に埋めれば誰も探しに来ない」
「猟銃の音がすれば、死体じゃなくても警察がここにくるわよ」
「ここに警察が来たって俺には何も影響ない。俺の家でもなければ、この近所に住んでいるわけでもないからな」
「あなたも不法侵入じゃない」
 馬が走ってくる音が聞こえた。
 まさか、これは幻影? けれど、話している内容が甲冑の男が話しているような内容とは違う。
「たまたま俺は猟銃を持っていた。それだけの違いだな」
『その男の武器を叩き落とすから、走って逃げろ』
 甲冑の男の声が聞こえた。
「さて、前戯は終わりだ。|挿入(フィニッシュ)といこうか」
 男は急に猟銃を構え直した。
 間に合わない……
 ダンッ、と大きい音がして、何も聞こえなくなった。聞こえないのは死んだせいかと思ったが、目を開けると猟銃は地面を向いていた。
「なんだ? 何をした!」
『何をしている! 早く!』
 私の腕をつかもうとした男の腕が、払い落とされていた。
 それを見て、とにかく壁の方へ走り始めた。
 まだ、この塀のどこに出口があるのか分からなかった。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 とにかく壁沿いのヤブをわけて進み、必死に出口を探した。
「どこだ、クソッ」
 私を探しているのか、見えない甲冑の男を探しているのかは分からなかった。
 ただ、自分が奥へと進む度に声が小さくなっているのは確かだった。
 足止めしてくれているのだ。
 ということは…… 幻聴や幻影ではないのだろうか?
 今の事実からするとそれしかない。
 けれど、タクシーは壊れてはいなかった。それはどう説明する?
「あった!」
 壁沿いに木製の扉があるのを見つけた。
 あそこから出れるに違いない。
 扉はかんぬきで閉じられていた。それを外す以外に出る方法はなかった。
 持ち上げてはずそうとするが、かんぬきになる横木が腐っているのか扉が悪いのか、がっちり擦れ合ってビクとも動かない。
「誰か……」
 こんなところに助けがくるわけもない。
 さっきの甲冑の男が助けにきたとして、その時は猟銃男もセットでやってくるだろう。
 門のサイドに背中をあずけ、かんぬきを足でおした。
『ズル……』
 もしかしたら、これでなんとかなるかも。
 私は片足だけでなく、両足をかんぬきにかけて蹴った。
「きゃっ」
 かんぬきがはずれ、私はそのまま門の床に落ちてしまった。
『ダンッ!』
 奥で大きな音がした。
 音の響きが違う。おそらく、さっきのように地面に散弾を打ち込んだのではなく、どこか狙ったところに飛んだような思える。
「まさか……」
 まさか甲冑の男が撃たれた?
 とにかくこの隙に私は逃げよう。逃げるチャンスは今しかない。
 打った背中の痛みを我慢して立ち上がると、重い門を押し開けた。
 門は通りより少し高いところにあり、急いで逃げようとして階段で転んでしまった。
 そのまま通りに転がり落ちると、体は泥だらけになっていた。
「!」
 タクシーを呼び止めようと、手を上げた。しかし、タクシーは一切減速せずに通り過ぎた。それだけではなく、道の泥を私に向かって跳ね上げた。
「こんな汚いのに載せてくれる訳無いか……」
 おそらく、タクシーはこの汚れた服をみて無視したのだ。
 研究棟ならシャワーも着替えもあったはずだ。
 私はタクシーで直接家に帰ることを諦め、研究棟へ走った。



「先生」
 体がしびれたように動かない。
「坂井先生」
 杏美ちゃんの声だった。
 またいつの間にか、あの|娘(こ)の体を求めてしまったのだろうか。
「坂井先生、そんなところで寝てると風邪ひきますよ」
 体が動かないのは、椅子を並べてその上で寝ていたせいらしい。
 上体を起こすと、テーブルの反対側に杏美ちゃんが立っていた。
「警備を入れて帰ろうと思ってたんですが、先生はどうなさいますか?」
「……」
「寝ぼけてます?」
「警備は私がセットして帰るわ、杏美ちゃんは先に帰って」
 亜美ちゃんが並べた椅子を回って近づいてくる。
「先生、お先に」
 顔を覗き込むようにしたかと思うと、軽い感じでキスされた。
「杏美ちゃん……」
 軽い笑顔で手を振って、そのまま部屋を出ていった。
 本人の気持ちではなく、こんなことを強要されているのか、と考えると、可哀想でならない。
 あの日私がスマフォの画面を見たことはバレていないということだ。
 亜美ちゃんがいなくなるのを確認して、警備の為に窓や扉を確認して回った。
 警備機械を操作して、カードを当てた。
「警戒を開始します」
 機械が音声を出した。
 部屋を出ようとして開けると、
「警戒を解除します」
 と聞こえた。
「?」
 操作を間違えたか、と思い、警備機械を操作して、廊下に出る扉を開けると、また『警戒を解除します』と聞こえてくる。
 おかしい。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 機械のところにぶら下げている操作ガイドをもう一度確認する。
 最初のやり方で間違っていない。
 最初の方法で、同じ扉から出ようとすると、やはり警備をセット出来ない。
 私は部屋をでて、棟の管理室に電話した。
「……そうなんです。警備を入れてもらえますか?」
『ちょっとまってください。全部閉まってますよね?』
「確認しました」
『やってみますから、待ってください』
 おい、坂井先生の研究室をセットしてみて、と小さい声で会話しているのが聞こえる。
 何か、ボソボソと話し声が続く。
『先生、まだどこか開いてるところがあるんじゃないかな? じゃなきゃ、人が残ってるとか。もう一回だけ見てもらえます?』
 管理室の人間がこっちにきて確認すればいいじゃないか。そう思ったが、言わなかった。
「……はい」
 開け閉めのポイントは全部見た。
 あとは居室に誰かいるかどうか…… まさか、いるはずがない。
 カードを操作して、もう一度研究室に戻った。
「やっぱり誰もいないじゃない」
 部屋をすべて見て、最後に自分の机に戻ってきた。
 警備機械が故障したんだろう。
 私が帰ろうという時に迷惑な話だ。
 ふと、目の前のディスプレイを見ると、動くものが写り込んでいた。
「だれっ」
 長い髪の女性だった。
 霧にプロジェクターで投影したような、オボロな姿だった。
 私はその光源を探して手を伸ばした。
『投影した映像じゃないの』
 そこから声がした。
 そんなバカな。私は振り返ってもう一度、消えているディスプレイを見た。私以外に、その女性の姿を写り込んでいる。私の幻覚ではない、ということなのか。
「話が出来るの?」
 女性はうなずいた。
「私に、読め、と言っていた人ね?」
『あなたのこの世界での命は短い。あなたの命のコードを結ぶ替りにあのコードを詠んで欲しいの』
「私はあの言語を読めない」
 女性は笑った。
『読める』
「読めない」
『ウソ』
 私は椅子から立ち上がった。
 何が根拠なのか示さない相手に苛立ちを憶えていた。
『私はあなたに継承してほしい。だから、あなたにコードを読む力を与えたのよ。その力を使ってきたくせに。今になってあのコードを読めない訳はないじゃない』
「……」
 女性は首をかしげた。
「どういう意味?」
『どのみちこの世界では生きられないの。遅かれ早かれ読むことになるわ。早く継承しないと、不利になるのはあなたなのよ』
 風で霧が吹き飛ぶように女性の姿が消え去った。
「ちょっと。話が出来るって言ったじゃない。 待ってよ!」
 私は叫んでいた。
 何を継承するというの? この世界で生きられないって…… 病気の事?
 私は力が抜けたように椅子に座った。
 あの女性の姿がただ発光しているだけではないとしたら、警備機械が反応したのかもしれない。
 気を取り直して警備機械の方へ戻る。
「警戒を開始します」
 私はため息をついて、ドアの方へ向かった。
 椅子に何かぶつかったような、ガタッという音がした。
「誰?」
 やっぱり部屋に誰かいたのだ。
 警備機械の近くに戻り、部屋の灯りをつける。
「誰? いるのは分かっているのよ」
 ガタッとまた音がした。
 どの椅子が動いたのかまでは分からなかった。机の影に隠れているに違いない。
 私はさっき読んだ警備機械の操作ガイドのことを思い出した。
「誰? 出てきなさい」
 ま、真下?
 私は足首をつかまれた。
 振りほどこうと足を動かそうとしたら、転んでしまった。
「林!」
このエントリーをはてなブックマークに追加

「坂井先生!」
 XS証券の代表取締役の林だった。
「やさしくするから」
「どこが? 部屋に侵入して待ち伏せていたのに」
「頼むから」
 林は私の足にしがみつくようにして、離さなかった。私が反対の足で蹴っても、林は離さなかった。
「イヤッ、絶対にイヤッ!」
「頼む」
 いっそ、この口を…… 顔を蹴ってしまおうと思った。血だらけになろうが、痣になろうが、林を受け入れるよりましだ。
「良いのか?」
 林が一瞬止まった私のお腹の上に馬乗りになった。
「いやっ、イヤに決まってるでしょ」
「騒ぐな」
 頬を叩かれた。
「……」
「坂井先生! 坂井先生! どうしました?」
「!」
 管理室から、私の異常に気づいてここに来たのだ。私の異常は、この警備機械を操作して伝えた。
 林は私の目線を追った。
「こいつか」
「先生、坂井先生、どうしました?」
 私は慌てて立ち上がって、管理室からきた警備の人へ走った。
「助けてください」
「私は何もしてないよ。倒れた坂井先生を引き起こそうとしていたんだ」
「ウソです、捕まえてください」
「中島所長に電話して、つかまえていいのか聞いてみろ。お前らの給料だっていくらかはこっちの懐から出てんだぞ」
「坂井先生はすこし離れててください」
 警備の人は林を追い詰めるように動いた。林は林で、追い詰められていることが判って、チラチラと左右を見回した。
「障害」
 私は大きな声で言った。
「器物破損。人を殴ったり、モノを壊したらそれこそ警察に届け出なければならないわ」
 そうでなくても警察に突き出したいところなのだが、この研究所のスポンサーである話をされたら、おそらく警備の人は示談にしようとする。
「くっ……」
 林は実験用の機材から手を離した。おそらくそれで殴るか、投げるかしようと考えたのだろう。
 棒立ちになった林に、無造作に警備の人が近づく。
 捕まえようと手を伸ばすと、トン、と警備の人の肩を押して林は走った。
「待てっ」
 林が研究室を出ると、警備の人が追て出ていった。
「はぁ……」
 警備機械の操作ガイドに書いてあった『緊急通報』の操作を覚えていてよかった。機械のトラブルもあって、こちらの状況は管理室でモニターしていることも幸いした。
 警備の人がこなかったら、今頃私はどうなっていたのだろう……
 そう考えるにつけ、林という男の行動原理が分からなかった。
 林の資金で、光ファイバーの実用化を共同でやっていて、林の考えた株取引のアルゴリズムをコーディングした。つながりはその程度で、何か考えを話し合ったり、気持ちを伝えあったりしていない。お互いにお互いを何の感情も持たない状態…… 少なくとも私はそう思っていた。
 それなのに、林はウソの仕事の依頼をして呼び出し、体を求めてきた。拒否したら今度は研究室で待ち伏せていた。
 自分の体をみても、男が欲情する体とは到底思えなかった。
 仕事で関係しているから、プライベートでトラブルになったらそっちに影響する。だから、私に手を出すメリットはひとつもない。
 だったらなぜ求めてくるのだろう。
 惚れた…… とか、そういう感情なのだろうか。
 最初に私が拒否したせいで、復讐、とか遺恨とかそう言うものも含まれ始めているのだろう。
 執着。
 どうすればそういう感情を捨ててもらえるか、考えた。
「遅かったか……」
 最終電車が行ってしまって、改札が閉まっていた。駅の反対側へ降りると、そこにはタクシー待ちの短い列が出来ていて、私はそのうしろに並んだ。
 よっぽど嫌われるようなことをすれば嫌ってくれだろうか。
 ぼんやり嫌われるようなことを考えていた。
 暴力を震えば嫌われるだろうか。
 好きなものをけなせば嫌うだろうか。
 乱暴なもの言いをすれば……
 タクシーはなかなかやってこない。
 短い列でも縮まないなら長い列に並ぶのと同じことだ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 その時、轟音を立ててタクシーの車道に入ってくる車があった。
 薄いクサビ型の車が入ってくると、横のおじさんが何かぼそっとつぶやいた。
「スーパーカーだ……」
 タクシー待ちの人の前に止まり、こっち側のドアが跳ね上がる。
「坂井先生」
 そこから出てきたのは林だった。
「タクシーなんて待ってたってこないよ。今日はすまなかなった。お詫びに家まで送っていくよ」
 信じてはダメだ。
 大きな声で言った。
「結構です」
「すまなかった。信用をなくしたのはわかってる。だから、お詫びに送らせてくれ」
 林も大きな声でそう言う。
 タクシー待ちの何人かが、ジロジロとこっちを見ている。
「結構です」
 私が言うと、タクシー待ちの人々は、耳を抑えて、うるさい、という仕草をした。
 そんなに大きな声じゃないのに、まるで迷惑だからどっかよそに行ってくれという感情がみてとれた。
「すまない。あやまる。この通りだ」
 林は車道で土下座した。
 タクシー待ちの人たちは私を睨みつけた。
 これだけ謝っているのに、許さないのか、とでも言いたげだ。
「……」
 乗らなければならないような圧力を感じる。
 許さなければいけないような。
 タクシーが一台こちらに入ってきて、クラクションをならした。
「早く行けよ」
「車をどかせよ。タクシー入れないだろ」
「許してくれ」
 林はまだ土下座している。
「許してやれよ。早く乗って車をどかせ」
 見知らぬ人たちが追い立てる。
 またタクシーがクラクションを鳴らす。
「早くいけよ」
 あからさまに私を睨みつける。
 この男がどんな男か知らない人たちが。
「……」
「許してくれ」
「車を動かしてください」
「坂井先生が乗らなければ動かさない」
 こんな場所で名前を呼ぶのか。
「タクシーが入れません。車をどかしてください」
「坂井先生が乗らなきゃ動かさない」
「乗るだけ乗れよ。俺たちだって帰らなきゃならないんだ!」
 泣きたくなった。
「もう!」
 私は林の車のドアに立った。
 どうやって開けていいのか分からなかった。
「早くして!」
 状況に気付いた林がやってきて、ドアを跳ね上げた。
 寝そべるような低いシートに座ると、林がドアを閉めた。
「坂井先生…… 許してくれてありがとう」
「許してません。そこの先でおろしてください」
「おろしませんよ。開け方も分からないでしょう?」
 やっぱり、この男はそのつもりで……
 私は大声をだした。
 しかし、エンジン音が大きくて、そとの人に気づいてもらえたか分からなかった。
 駅を出ると、人通りもまばらで、加速する車から降りることはできそうになかった。
 ハンドルを横から操作してしまえば止まれるかもしれない。でもこのスピードだ…… 運が悪ければ自分の命がどうなるかがわからない。
 運転している間は少なくとも林は手が出せないと考えるべきか。
 片側二車線の広い道に出ると、林は更に加速した。
 やはり、このまま乗っていては……
「止めて!」
 この車のどれが何のレバーだか分からなかったが、こちらから操作出来るレバーを引いた。
 轟音が響いて車が急に減速した。
「危ない! 死にたいのか」
 林の右手が顔面に当たった。
 後頭部を強くシートにぶつけた。
 私の中で何かが切れた。
 やっぱり惚れたとかそういう感情ではない。
 ただ征服したいだけなのだ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 私が傷つこうが、私にどう思われようが関係ない。
 ただ思うがままにならない|私(モノ)に腹をたて、それを支配しようとしているだけだ。
 下手に抵抗したらコイツに殺される。
 ならば殺される前に殺さないと……
『承知』
 頭上方向から声が聞こえたような気がした。
 甲冑の男の声。
 あの屋敷でどうかなったのかと思っていた。
「ん? 変だな……」
 林が何かつぶやいた。
 車は減速しながら、左の端に寄っていった。
 私はいつでも車を出ていけるようミラーをみていた。
 車が止まりかけた時、運転席側で、ドカン! と大きな音がした。それと同時に車が完全にとまった。速度は大して出ていなかったが、止まった衝撃はすごかった。
 私は、視界の左端に映るものを確かめようとゆっくりと横を向いた。
「ひっ……」
 林が…… 動かなくなった林がいた。
 電柱のようなものが…… 電柱そのものが、縦に貫いていた。屋根は破れ、歪んでいた。そのまま下にいた林の体を血だらけにして貫通しているようだった。
 林の顔と手が私に助けを求めるように動いた。
「いや!」
 後ろを確認しないまま、車のドアを跳ね上げた。
 全身がガタガタ震えていた。
 道路に手をつきながら這い出ると、ようやく立ち上がった。
 人が死んだ。
 いや、殺された?
 ……まさか、私が願ったから?



 林の死は、事故として処理された。
 電柱を使って人を殺せるような環境が作られた訳ではなかった。その場所で工事をしていたとか、近く資材置き場があったとかもない。事故としても変だった。上の高速道路から落ちてきた可能性は考えられるが、その時間通行していたトラックに電柱を積んだ車はなかった。
 それに加え、事件を見た者が、私しかいなかった。
 深夜の時間帯だったし、目撃者が出てこなかい。今後も捜査は続くだろうが、この事件を解決するような証言が出てくるとは思えなかった。
 私はこう予想していた。
 甲冑の男がやったのだ。
 人の手でこのコンクリート製の電柱を持てるとは思わないが、こちらの世界に出入り出来るのなら、その応用でものを移動させることも出来るのではないか。突然、車の真上にコンクリート柱を出現させれば、落下して突き刺さるだろう。
 考えはしたが、誰にも言わなかった。
 一つには、信じてもらえないだろう、ということがある。
 そして、もし信じて貰えた場合、林の死を望んだのは私…… つまり私が林を殺したと告白するようなものだった。どちらにせよ私にメリットはなかった。
 警察も私が林に言い寄られていて、それを拒否していたことは知っているようだった。だからと言って、落下してくる電柱の真下に車を誘導することが出来ることにはならなかった。
 事故。
 それ以外の表現は出来ない死に方だった。
 そして、この事故を、おもしろおかしくテレビや雑誌が取り上げた。
 おかげで、マスクををして歩かねばならなかった。コンビニに行くにも、夕飯の買い物をするにも、気晴らしに街を歩くだけでもだ。
 騒動の間も、XS証券との合同研究は進められていたた。ワンマンだったはずの林がいなくなって、どこに向かうかわからないと言われたが、以外と後任の社長が優秀だったのか、それとも元々しっかりした組織だったのかは分からない。
 フラフラと迷走するのではなく、やるべきことを進めていくような雰囲気があった。
 研究所への資金提供も続けられ、『水晶の棟』は完成を迎えた。
「研究所のゾクに『水晶の棟』と呼ばれていた研究棟が完成しました。そこで今日は所長の中島梓さん、主任研究員の坂井知世さんをお呼びしまして、お話しを聞きたいと思います」
 アナウンサーが話し終えると私達の姿がカメラに映った。私達が頭を下げると、アナウンサーが続けた。
「それは本日の竣工式の様子からご覧ください」
 どうやらそれがキッカケで、録画分の再生が始まったようだった。
 アナウンサーは段取りを確認するために小さい声で私達に確認した。
 やり取りは至極普通のことで、私達がわざわざここで話すほどのことではなかった。
 棟が出来てどう思っているか、中はどうですかとか、何階に入るんですか、とか、そんなことだ。竣工式後の所員へのインタビューとさして変わらない。
「後、スタジオからの質問がいくつかきます。答えられないような時はこちらで仕切りますから安心してください」
「……」
「答えられないような質問は困るのですが」
 中島所長はきっぱりと言った。
 アナウンサーはスタジオ側のキャスターやコメンテーターにどんな質問をする気なのか聞いてくれた。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 スタジオからの声がこちらのイヤホンに入っていくる。とぼけたような声で、こっちのアナウンサーから聞かれるのと同じような質問だった。
「聞こえましたか? どうでしょう? 先に答えを考えておいてください」
 中島所長は安心したように微笑んだ。
 小さなモニターに放送されている様子が映っていた。竣工式の映像が終わり、コマーシャルが流れているようだった。
「そろそろです。こっちをみてください」
 中島所長はスマフォを使って少し前髪を整えていた。
 私はタオルで顔の汗をすこし抑えた。
 アナウンサーが横に立って、マイクを何度か握り直した。
 カメラの前で指示が始まる。
「3、2、1」
 最後は手で仕草が入った。
「水晶の研究棟ですが、まるでお伽話に出てくるお城のような雰囲気です。水晶のこういう集まりをクラスターと言うんですね」
「……はい」
 所長が答えるのか、私が答えるのか、一瞬判断に困ってしまった。
 アナウンサー眉が微妙に反応した。
「中島所長、研究棟なのですが、なぜこんな形になさったのでしょう」
 何度も何度も繰り返して答えていたせいで、所長もスラスラと話し始めた。
 私の研究成果をみて、水晶の未来、そして建物にインパクトを与えて、将来、研究者になりたい、あそこに入りたい、と思う女性を増やすためだということだ。
 そう、男性研究者ではなく、女性研究者を増やす目的でお城のような研究棟にしているのだ。研究室によっては、内部がピンクだったりもするようだ。
「女性の研究者を増やす。実現するといいですね」
「私の代では彼女ぐらいでしたが、彼女が所長とか、そういう世代になった時に……」
 話は続く。
 私は予定していたやり取りが変わったのだと気付いた。
 おそらく、私が適切なタイミングで答えなかったからだ。
 所長が喋り終えると、スタジオ側からの質問に切り替わる。
「坂井主任、所長は女性の研究者を増やしたいとのことですが、あなたは女性同士の恋愛感情についてどう思われますか?」
「どういうことですか?」
「あなたの研究室にいる女の子がセクハラ被害に合っているという事実があるようですが」
「私の知っているかぎり、そういう事実ありません」
「ちょっと次のインタビュー映像をお見せします」
 画面がまた切り替わり、録画された映像が流れた。音声も姿も本人が特定出来ないように変えられている。
 内容が進み、話の内容からどうやら私がセクハラしているということのようだ。そして、ちらっと映った服を見た瞬間、はめられたと悟った。
「(杏美ちゃん……)」
 テレビに入らない程度の小さいこえでつぶやいた。
 所長は怒りで拳を握りしめている。
「どうですか? この女性は被害にあった時のことを録画しているということで」
「覚えがないですか?」
「……」
 私は答えることができなかった。
 ハメられた、と言えば事実を認めたも同じことになってしまう。相手がさそってきたかどうかなんて、この短時間のやり取りでは説明できない。
 したか、しないかの部分だけが重要だ。
 中島所長がこちらにいるアナウンサーを引っ張っていき、怒って話し合いをしている。
 私だけが画面の前に晒され、スタジオからの口撃を受けている。
「ま、覚えがないというのならしかたありませんが」
「自分の性的趣味の為に女性研究員を増やすことのないようお願いしますね」
「この水晶の棟に移ったらセクハラもなくなっていることを期待します」
 まるで私が女性なら誰でも性的対象として見て、セクハラを仕掛けるような口ぶりだった。
 こうやって印象が悪くなってしまうと、出資してくれているXS証券が手を引いてしまうのではないか。
 もう、私の研究はお終いだ……
 放送が終わった、という合図が入った瞬間、私のほおを涙が落ちた。
 所長はこちらの撮影クルーの責任者を出せと要求している。研究所の宣伝になると思ってテレビを受け入れたのに、こんな形で裏切られるとは思っていなかったのだろう。
 所長、もういいんです。
 もうおしまいにしましょう。
 私は今の病気で死ぬ運命なんです。
 セクハラの責任を取って研究所をやめます。
 せめて死ぬまでの間、静かに暮らしたい。
 思いがこみ上げてきた。
 一つ一つは言葉にならない。
「所長。もういいんです」
「何言ってるの? 事実と違うなら戦わないと」
「事実とは違います。けれど、こんな風に報道されたら覆すには…… 話したくないことまで話さなければならない。それは色んな人を傷つけてしまう」 
このエントリーをはてなブックマークに追加

 研究の時に自分の言葉が傷つけているように、真実をそのまま話すと誰かが傷ついてしまう。
「そんなことを話さなくても抗議できます」
 中島所長は何か別の手段で戦おうとしている。
 それは私には出来ないことだ。
「もう帰ります。研究もしばらく休みます」
「えっ、何言っているの? 水晶の研究棟なのよ、あなたの為の水晶の塔……」
 中島所長が私の肩をつかみかけたが、それをかわすようにして、振り返らず、走った。
 逃げたかった。
 一人になりたかった。
 心地よいベッドで、すべてのことを忘れ去りたかった。
 家に戻ると、灯りもつけずそのままベッドにもぐった。
 足元の小さいモニターで杏美ちゃんがインタビューされる様子が頭によみがえる。何であんなことをしたのか。杏美ちゃんは一言も同性愛者、だなんて言ってない。
 それなのに、まるで昔から好き合っていたような気になって…… 罠だったのに。
 何度も何度も後悔を繰り返し、考え疲れてきた。
 ベッドの中で体を丸めているうち、ようやく何か落ちつくと、そのまま眠ってしまった。



 見知らぬプログラムのソースコードが目の前の壁に映し出されていた。
 私が注目すると合わせるようにスクロールされていった。手も動かないのに、単語の検索が実行され、目的の語がハイライトされる。
 なんだろう、と思いながら、自分の考えを変えてみる。
 見たこともない言語のはずなのに、関数を宣言するキーワードを知っている。
 条件分岐する記述のしかたも、繰り返しも。
 コメント行にかかれている不思議な文字すら、何が書いてあるのかが読める。
『また、あの世界なのかしら』
 壁の周りに注目していくと、壁を中心に長机と椅子が取り囲んでいた。どうやら講堂のようだ。
 後ろから声がした。
『どう、女王になる気になった?』
 振り返ると、長い髪の女性が立っていた。
 再三、私に『読め』と言い続けていた女性だ。
 美しい顔立ちと、胸元の宝石を憶えている。
『このコードはなんですか?』
『あら? あなたには読めたでしょう? あるオブジェクトを記述したものよ』
『確かに、”リンゴ”の記述がされています。遺伝子のデータへのリンクもされていて。何か壮大なシミュレータなんでしょうか?』
 ふと、この女性と普通に会話出来ていることに疑問を持った。
 耳に入ってくる音は、とても言葉とは思えないような、歌でもない、念仏のような音に聞こえている。
『ちょっと待ってください』
 自分の話した声も、まるで念仏のような音だった。なぜそれがこの口と喉で発声出来ているのか答えはでなかった。
『シミュレータ、というのは確かに間違えではなないかもしれないわ。けれど、私がこれをシミュレータ、と答えたらあなたはどう思うのかしら?』
『どういう意味ですか?』
 通路を下りながら、正面の壁を見るように手を伸ばした。
『ほら、これを見て』
 映し出されているコードが切り替わった。
 先頭にカーソルがあたり、このオブジェクトは、いくつものファイルから構成されていることが示された。
『遺伝子構造のタイトルはこれ』
『に、人間?』
『インスタンスのリストを見ることも出来るわ』
 妙な記号で作られたIDとペアになって人名がリストされた。
『!』
 私の名前だ。
『そう。これはあなたよ。こちらにくれば、このインスタンスは削除される。世界を移動してしまう、ということね。あらゆるしがらみから逃れられるのよ』
 どういうことか分からなかった。
 これは夢に違いない、とも思った。
 夢でないとしたら、自分が世界シミュレータの中のインスタンスの一つである、ということを受け入れることはできなかった。
『ちょっと待って! これを見せてください』
 純粋な興味だけが動機だった。
 夢でもこんなに面白いことはない、と感じていた。
『みてもいいけど、このままでは改変出来ないわよ』
『ええ、それは構いません』
『改変するなら……』
 私は女性のことばを遮った。
『まず見せてください!』
 とにかくなにが起こるのか、どんなことになっているのかを確かめたい。
 夢なのだとしたら、自分は自分に対し、どんな想像をしているのだろう、とも思った。
 最初のように思考することで壁に映るコードをスクロールしたり、ファイルを開いたり、検索したり、ジャンプしたり、自由にコードを動き回ることが出来た。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 元となる『人間』の記載以外にも、動的に『リンク』しているプロパティやメソッドが多く、何がどう動くのかを把握するのが大変だった。
 ようやくこのインスタンス、すなわち私についてしまった病気の記述や、何故この女王が『読め』と言って呼びたがったいるのかを把握した。
 病気には、死までのカウンターと、それを早める為の記述ばかりが書かれていて、外す方法が一切なかった。某国の医者のインスタンスを調べたが、私の病気を取り除くメソッドもプロパティも持っていないことが判ってしまった。
『つまり、私は私に絶望しか持っていない』
『夢と思い込もうとしているのね? これはあなたの世界のコードそのものなのよ』
『ウソよ!』
『インスタンスは消滅しても履歴は残っているわ。人が記憶をアクセスする為にね。XS証券の林を見てみればわかるわ。あれはこちらから直接コードを改変して殺したのよ』
『えっ?』
『林が死んだのは、あなたにとっての現実、でしょう?』
 私の記憶の整理の途中で、どうしようもない出来事をなんとか分かる範囲でつじつまを合わせようとしているのだ。だから、こんな世界シミュレータのような形で……
『いい加減、目をそむけるのはやめて。私があなたの脳にアクセスしている手段はここ』
 壁に映し出されたコードが切り替わった。
 私のインスタンスが持つメソッドの一覧から、一つがハイライトされた。
『わかるでしょう? これは夢ではなく、事実なのよ』
 女性は顔を近づけてきた。
『何か、直接あなたに訴えかける方法はある? 私が、あなたの夢の中の想像でないことを示す方法を教えて』
 長い髪の女性は、どことなく、中島所長のようにも見える。けれど、年齢や表情の作り方は同じではない。
 私がこの女性を信じるとすれば…… なんだろう。もう一度林を生き返らせたり、突然電柱が車の頭上に現れたような、〈現実〉へのアクセスがあったら信じるだろうか。
『林を生き返らせる? 大胆なコード変更が必要になるから、これはやめましょう。コード管理のプログラムが排除を始めるでしょうし』
『コード管理のプログラム?』
『あなたも狙われていたでしょう? 私の近衛兵が何度も救ったはず』
 確かに私は、何度か甲冑の男に助けられた。
 あの時、こっちを狙っていたのはコード管理のプログラムだった、というのか。
『今は、林の事故の件を追っているみたいね。こっちはいくつもプロクシを立てているから、バレやしないでしょうけど』
 この発言や、私がさっき壁でインスタンスを調べたりコードを検索したことはコード管理プログラムに察知されないのだろうか。
『だから、やれるとしたら、もっと全体に影響のないことにして。コップを左右入れ替えるとか。そんなことなら見せてあげられるわよ』
『さっき、コードを見たり、インスタンスを調べたりしたら、コード管理のプログラムに察知されないの?』
『同じことよ。いくつも変わるプロクシを経由している。バレたところから切り離してしまうから、問題ないわ』
『……読めば』
『?』
 女性はじっと私を見つめ返した。
『私が読めば、どうなるの?』
『その瞬間に私が|あなたの(・・・・)|インスタンス(・・・・・・)を取り出す。そして、私達の世界に招き入れるわ』
『インスタンスのリストにアクセス出来るのに、私を取り出せないの?』
『あなたの関連するところを全て抜き取らなければならないの。それに、あのリストだけではあなたのインスタンスの先頭アドレスすら分からない。あのコードを詠唱することは、あなたの世界に混乱が生じる。インスタンスを構成している部分を全部抜くという危険な作業の為、混乱させ、目くらましをする必要があるの』
 何を言っているのだ。
『あなたを…… というか、世界から一人を取り出す作業は危険なの。普通にやってはコード管理プログラムに邪魔されてしまう。だから目くらましが必要なの。混乱させて、それに乗じて取り出す、と言っているの。だから、あのコードを詠唱してほしいの。これで判った?』
 いや、だから、私の世界はコードで出来ているのか? 世界シミュレータの中の話なのか?
『何度言ったらわかるの?』
『けど、信じられない。これは私の夢よ』
『起きなさい』
 私はベッドの上で上体を起こした。
 キッチンの方にキラキラと光る粒子が飛んでいる。
 光は長い髪の女性を描き出した。
「げ、幻覚?」
『幻覚じゃないことを証明します』
 私はベッドを下りてキッチンに入った。
 ピンクとブルーのマグカップを取り出し、テーブルに右にピンク、左にブルーを置いた。
「これを入れ替える、ということ?」
『そういうことよ。ほら、判ったでしょう?』
「左にピンク、右にブルーを置いたわ」
『違う! さっきは逆に置いたでしょう?』
「……左にピンクだったはずよ」
このエントリーをはてなブックマークに追加

『ああ…… あなたの記憶に影響する部分を動作させないようにしてから実行しないと、現実が変わった事を、あなたが認識できないのね』
「どういうこと?」
『あなたにそのものを見せるわ』
 いつものテーブルの上に、見覚えのないソースコードが展開された。
 そして、このインスタンスのコードを改変した。
 クルクルと底面で周りながら、最後は転がっていくような内容だった。
『ほら、ピンクのマグカップをそこに置いて』
 私がマグカップを手にとって、目の前にトン、と置く。すると、突然底面が机に接する為の円を使って周り始め、マグカップは横転し、机を転がり落ちて割れた。
『判った? 書いた通りのコードが実行されたことが?』
「……」
『割れてインスタンスが消えるから、コード管理プログラムもそこまで検査しないでしょう』
「私のマグカップ……」
『どうやら干渉しすぎたみたい。私は逃げるわ。しばらく一人で考えてみて』
 女性の形をとっていた、光の粒が消え去っていった。
 気づくと、床に割れたマグカップが落ちていた。
「これって……」
 私は確かに今、覚醒している。
 寝ているわけじゃないのは確かだ。
 何か不注意で割ったわけじゃない。
 確かにあの女性が書き換えたコードの通り、クルクルと底を使って回り、そして転がって落ちた。
 つまり……
 私はあの女性が示したインスタンスでしかない。
 極端に言えば、私の生死も理論上、書き換え可能なのだ。
 その女性が、私を助ける意味はどこにある?
 考えても答えは出ない。
 マグカップの破片を拾うと、それはもうマグカップではなく、世界シミュレータ内では陶器の破片というような、別のオブジェクトとしての振る舞いになっていることが読み取れる。
「コードが見えるわ……」
 まるでテレビにテロップが流れるように、拾った破片に重なってソースコードが見えた。
 もしかすると、この力が必要なのだろうか。
 この方法で、コード管理プログラムに私が触れれば、もしかして、コード管理プログラムのソースが判ってしまう。それを解析すれば、コード管理プログラムを倒せるんじゃないだろうか。
『そうよ……』
 何か、声が聞こえた気がした。
「そうなの? 私にそれをしろというの?」
 けれど、私がこの世界にいたら、カウンターが回って死んでしまう。
『時間がないの』
 かすれて聞き取れないような小さな声だった。
 そうなのか。
 けれど……
 私には、読めと言われたコードが持つ影響が判っていた。
 読めば、世界が変わってしまう。
 そうすれば私が世界から取り出され、私から病気が取り除かれる。ただ、その代償として世界を変えていいのか、と言われると、あまりに自分勝手な気がした。
 だとすれば、自分はこのまま死ぬしかない。
 双方が上手く収まる方法はないのだろうか。
 私がこの病気で死なない。
 世界も変わらない。
 双方幸せだ。
『それは無理なの』
 姿の見えない女性から、絶望的な言葉が発せられる。
 コード管理プログラムさえ止めてしまえば……
『察知される』
 なんだろう。彼女には何か見えているのだろうか。
『それは』
「!」
 おぼろげに光る煙が渦を巻き、目の前で形になった。
 女性の姿だった。
 胸の宝石がないのと、着ている服が違うくらい。
 姿形はいっしょだった。
「あなた、だれ?」
『読むな、と言ったはず』
 もしかすると、これがコード管理プログラムだったのか?
『あなたがこの世界から切り離されて、生きていける保証はないのよ』
「私を襲ったのもあなた?」
『……』
「いっそ殺してください」
『……』
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ