あの声に応えてはいけない。
応えた者は向こう岸。
帰ってこれない、向こう岸。
帰りたいなら……
あの声に応えてはいけない。
声がどんなに魅惑的であっても。
「ファイ、オー」
体育館に声が響き渡る。
そして、床を跳ねるボールの音。
靴底が生み出す音が、鳥の声のように思える。
応えた者は向こう岸。
帰ってこれない、向こう岸。
帰りたいなら……
あの声に応えてはいけない。
声がどんなに魅惑的であっても。
「ファイ、オー」
体育館に声が響き渡る。
そして、床を跳ねるボールの音。
靴底が生み出す音が、鳥の声のように思える。
今、ここでは、土谷高校女子バスケットボール部の練習が行われている。
体育教師の川西祐介は、笹崎翔子と共に女バスの顧問をしていた。ただし、笹崎翔子は進学クラスの担当の為、実務というか、事務処理以外は、ほぼ川西祐介がやっていた。
川西は体育教師だったが、髪は長かった。比較的若いこともあってか、前髪も適当に垂らしていて、染めている訳ではないが茶髪だった。染めている訳ではない、というのは初めての授業や、部活動での最初の挨拶の時に、必ず本人が入れてくるネタだったので、本当に髪が痛んで茶色めいているのか、染めているのかは判らなかった。
川西が、何かディフェンスについて指導を始めたが、何かイヤな予感がした。
顧問の手が、道子の胸に軽く触れた。
……というか、あからさまに触っている。あかねには、指まで動いたように見えた。
「だから、やめてください」
「いやいや、そういうつもりじゃ」
「そういうつもりがないなら触れるはずないじゃないですか。さっきも神林さんにしてたでしょ」
「いやいや、そういうつもりじゃ」
「そういうつもりがないなら触れるはずないじゃないですか。さっきも神林さんにしてたでしょ」
「……クズ教師」
イヤな予感はこれか、とあかねは思った。
「やっぱり顧問変えねぇと」
「そうだね」
部員は口々にそう言っていた。
練習の途中だったが、道子と橋本部長はもう一人の顧問である笹崎先生に事情を話して、教師として退場してもらうか、少なくとも部活の顧問から退場してもらおう、と考えていた。それは部員全員の総意だった。
あかねは今日も神林が、体育館の入り口で手を広げて皆を引き止めているのを見た。
「ね、だめだよ。先生反省してるじゃん」
「みく、今日だって触られて嫌がってたじゃん。忘れたの? みくの為にもなるんだよ」
神林は首を振る。
「やめようよ。クビになるんだよ、収入がなくなったら、生活出来なくなるんだよ、そんなことあなた達が勝手に決めていいと思ってるの?」
あかねはその理論が良く分からなかった。
大体、もう何度も反省する機会はあった。それなのに未だに隙をみては体を触ってくる。根本的な人格に問題があるのだ。
「生徒の体を触るのは、人生を棒にふるようなことでしょ?」
「体を触れずに指導すること出来ないじゃん。暴力じゃないんだし」
だんだん、みくも切れてきたようだ。あかねは思った。またみくが暴れて、川西先生が土下座して、また様子みることにする、ってなるので終わりだ。
あかねは町田に言った。
「結局、いつも通りだね」
「そうね」
町田も興味なさそうにそう答えた。
練習の帰り、あかねは帰り道が一緒の友達と話しながら歩いていた。
「あかね、今日はスマフォもってきてる?」
「もってきてるよ」
あかねは取り出してみせた。
「例の試合の動画アップしてあるらしいんだ。あかね、落としてないでしょ」
「うん。なんか今月もう容量がヤバくて」
「じゃあさ、ちょっとタダのWiFiスポットあるんだけど」
上条がそう言い出した。
「あ、もしかしてあれ?」
「あれヤバイ、って話だよ」
「ビッチだっけ? そんな感じの変な名前のWiFiポイント」
「それそれ」
「つなぐとヤバイって話。パスワード掛けてないところはヤバイって」
「だいじょうぶだって」
「速いの?」
「私もあの試合見たいな〜」
あの試合か、とあかねは思った。もう転校してしまったのだが、元土谷高のバスケ部にいた、超美人で、超バスケうまい先輩が出た試合のことだった。その先輩は遠山美樹と言って、うちらの代はその先輩に見蕩れてバスケ部に入った子も多いという、伝説的な部員だ。
たしか、あの試合の動画、めっちゃくちゃ容量が多いから家にWiFiがある子とか、パソコンある子しか見たことがない、という話だった。
「私以外にスマフォもってないんだっけ?」
「いやもってるけど…… あかねのが一番最新じゃん」
最新というのは表現がいいのだが、買ってもらったのが一番後だ、というだけのことだ。あかねは、そのヤバイ、と言われているネットにつなぐのが引っ掛かっていた。
「えー、別に最新じゃなくてもよくね?」
「あかねは、美樹先輩の試合見たくないの?」
「……みたいけど」
「じゃキマリ!」
ずるい、とあかねは思った。一対一では言わないのに、集団になると誰かが調子にのってこういうことを言ってくる。
「分かったよ」
折れる自分もいけない、と思いながらも、あかねはしぶしぶ承諾した。
そのWiFiは、ちょっと校舎をぐるっと回って体育館の裏手の方にあった。近所の民家のWiFiなのか、学校側にあるのか、細かい位置までは分からなかった。ただ、そこに行けば入る、という話が回っていた。
「確かここなんだよ」
「どうやんの?」
あかねはいっそつなぎ方を知らないフリしてやろうか、と思った。
「あたし知ってる。貸して」
チッ。
「あれ、そんなWiFi無いよ?」
「リストの更新って時間掛かるよ」
クッソ!
「なんか言った?」
「何も」
あかねは答えた。
皆も自分のスマフォで繋ぐのがイヤだからあたしのにした、というのミエミエだった。
「出てきました…… これですこれ」
「BITCHって酷い名前つけるよね」
「つなぐよ? いい?」
ここまで勝手にやっといて、最後の最後に聞いてくるなんて…… あかねはもうどうでも良くなっていたが、少し考えたフリをした。
「えっと……」
「もう! いいでしょ?」
「……分かった。いいよ」
「接続!」
写真が流出したりとか、ウィルスとかが感染(うつ)っちゃったりとか、そんなことになりませんように。あかねは心のなかで手を合わせた。
「動画のURL知ってる?」
「えっと…… で…… はい」
私の『リンク』からURLをコピペしていたようだ。
「あ、速いね!」
「いけるよ、あかね」
「めっちゃ速い」
ダウンロードの進行を見てると、確かに速い。
「始まるよ。あかね! ほらほら」
スマフォを横に倒して、皆でその試合を見始めた。ダウンロード終わったんだから、一回ネット切って欲しいんだけど、とは言えなかった。
動画が始まると、美樹先輩の動く姿に感動してしまい、あかねはそんなことは忘れてしまった。
当然、上手いのもあるのだが、単純にそれではない。男子顔負けのプレーとかも感動するだろう、けれどこの美樹先輩のものは違った。
品というか、女性らしさというものまで昇華している気がする。あかねは思った。パス出しするフリをするだけのことなのに、妙に色っぽい。短髪なのだが、チラっと振り向く度に髪がなびいて、それが嫌味でないところが凄いのだ。
「いいねぇ」
「先輩、なのに、なんか、かわいいんだよ。これがたまらない」
「髪とハチマキだけで萌える」
「なんか懐かしい……」
この姿を入学直後の説明会で見て、皆バスケ部に入ったのだ。あの馬鹿スケベ教師が顧問だとも知らず。
『応えてはいけない』
「え?」
あかねは誰かが耳元でそう言った気がして振り返った。
「?」
上条だけが少し反応したが、直ぐに動画に見入ってしまった。
「あ!」
ブルブルとした振動とともに、画面に通知メッセージが入った。着信のようだった。
「あかね、電話」
スマフォを受け取ると、みんなと反対を向いて電話に出た。
「何、お母さん」
「今日塾でしょ、これから、お弁当渡しに駅に行くから」
「あ! 少し遅くなる」
「じゃ、少し待ってから家でるね」
「ありがと」
電話を切った。
「ごめん、今日塾だった」
「え〜 見れてないよ〜〜」
「残念だけどしかたないよね。こんど見せて」
「絶対だよ!!」
「うん。本当ごめん。ごめんね。先に帰るね! じゃね!」
あかねはそのまま走りだした。
「そうだね」
部員は口々にそう言っていた。
練習の途中だったが、道子と橋本部長はもう一人の顧問である笹崎先生に事情を話して、教師として退場してもらうか、少なくとも部活の顧問から退場してもらおう、と考えていた。それは部員全員の総意だった。
あかねは今日も神林が、体育館の入り口で手を広げて皆を引き止めているのを見た。
「ね、だめだよ。先生反省してるじゃん」
「みく、今日だって触られて嫌がってたじゃん。忘れたの? みくの為にもなるんだよ」
神林は首を振る。
「やめようよ。クビになるんだよ、収入がなくなったら、生活出来なくなるんだよ、そんなことあなた達が勝手に決めていいと思ってるの?」
あかねはその理論が良く分からなかった。
大体、もう何度も反省する機会はあった。それなのに未だに隙をみては体を触ってくる。根本的な人格に問題があるのだ。
「生徒の体を触るのは、人生を棒にふるようなことでしょ?」
「体を触れずに指導すること出来ないじゃん。暴力じゃないんだし」
だんだん、みくも切れてきたようだ。あかねは思った。またみくが暴れて、川西先生が土下座して、また様子みることにする、ってなるので終わりだ。
あかねは町田に言った。
「結局、いつも通りだね」
「そうね」
町田も興味なさそうにそう答えた。
練習の帰り、あかねは帰り道が一緒の友達と話しながら歩いていた。
「あかね、今日はスマフォもってきてる?」
「もってきてるよ」
あかねは取り出してみせた。
「例の試合の動画アップしてあるらしいんだ。あかね、落としてないでしょ」
「うん。なんか今月もう容量がヤバくて」
「じゃあさ、ちょっとタダのWiFiスポットあるんだけど」
上条がそう言い出した。
「あ、もしかしてあれ?」
「あれヤバイ、って話だよ」
「ビッチだっけ? そんな感じの変な名前のWiFiポイント」
「それそれ」
「つなぐとヤバイって話。パスワード掛けてないところはヤバイって」
「だいじょうぶだって」
「速いの?」
「私もあの試合見たいな〜」
あの試合か、とあかねは思った。もう転校してしまったのだが、元土谷高のバスケ部にいた、超美人で、超バスケうまい先輩が出た試合のことだった。その先輩は遠山美樹と言って、うちらの代はその先輩に見蕩れてバスケ部に入った子も多いという、伝説的な部員だ。
たしか、あの試合の動画、めっちゃくちゃ容量が多いから家にWiFiがある子とか、パソコンある子しか見たことがない、という話だった。
「私以外にスマフォもってないんだっけ?」
「いやもってるけど…… あかねのが一番最新じゃん」
最新というのは表現がいいのだが、買ってもらったのが一番後だ、というだけのことだ。あかねは、そのヤバイ、と言われているネットにつなぐのが引っ掛かっていた。
「えー、別に最新じゃなくてもよくね?」
「あかねは、美樹先輩の試合見たくないの?」
「……みたいけど」
「じゃキマリ!」
ずるい、とあかねは思った。一対一では言わないのに、集団になると誰かが調子にのってこういうことを言ってくる。
「分かったよ」
折れる自分もいけない、と思いながらも、あかねはしぶしぶ承諾した。
そのWiFiは、ちょっと校舎をぐるっと回って体育館の裏手の方にあった。近所の民家のWiFiなのか、学校側にあるのか、細かい位置までは分からなかった。ただ、そこに行けば入る、という話が回っていた。
「確かここなんだよ」
「どうやんの?」
あかねはいっそつなぎ方を知らないフリしてやろうか、と思った。
「あたし知ってる。貸して」
チッ。
「あれ、そんなWiFi無いよ?」
「リストの更新って時間掛かるよ」
クッソ!
「なんか言った?」
「何も」
あかねは答えた。
皆も自分のスマフォで繋ぐのがイヤだからあたしのにした、というのミエミエだった。
「出てきました…… これですこれ」
「BITCHって酷い名前つけるよね」
「つなぐよ? いい?」
ここまで勝手にやっといて、最後の最後に聞いてくるなんて…… あかねはもうどうでも良くなっていたが、少し考えたフリをした。
「えっと……」
「もう! いいでしょ?」
「……分かった。いいよ」
「接続!」
写真が流出したりとか、ウィルスとかが感染(うつ)っちゃったりとか、そんなことになりませんように。あかねは心のなかで手を合わせた。
「動画のURL知ってる?」
「えっと…… で…… はい」
私の『リンク』からURLをコピペしていたようだ。
「あ、速いね!」
「いけるよ、あかね」
「めっちゃ速い」
ダウンロードの進行を見てると、確かに速い。
「始まるよ。あかね! ほらほら」
スマフォを横に倒して、皆でその試合を見始めた。ダウンロード終わったんだから、一回ネット切って欲しいんだけど、とは言えなかった。
動画が始まると、美樹先輩の動く姿に感動してしまい、あかねはそんなことは忘れてしまった。
当然、上手いのもあるのだが、単純にそれではない。男子顔負けのプレーとかも感動するだろう、けれどこの美樹先輩のものは違った。
品というか、女性らしさというものまで昇華している気がする。あかねは思った。パス出しするフリをするだけのことなのに、妙に色っぽい。短髪なのだが、チラっと振り向く度に髪がなびいて、それが嫌味でないところが凄いのだ。
「いいねぇ」
「先輩、なのに、なんか、かわいいんだよ。これがたまらない」
「髪とハチマキだけで萌える」
「なんか懐かしい……」
この姿を入学直後の説明会で見て、皆バスケ部に入ったのだ。あの馬鹿スケベ教師が顧問だとも知らず。
『応えてはいけない』
「え?」
あかねは誰かが耳元でそう言った気がして振り返った。
「?」
上条だけが少し反応したが、直ぐに動画に見入ってしまった。
「あ!」
ブルブルとした振動とともに、画面に通知メッセージが入った。着信のようだった。
「あかね、電話」
スマフォを受け取ると、みんなと反対を向いて電話に出た。
「何、お母さん」
「今日塾でしょ、これから、お弁当渡しに駅に行くから」
「あ! 少し遅くなる」
「じゃ、少し待ってから家でるね」
「ありがと」
電話を切った。
「ごめん、今日塾だった」
「え〜 見れてないよ〜〜」
「残念だけどしかたないよね。こんど見せて」
「絶対だよ!!」
「うん。本当ごめん。ごめんね。先に帰るね! じゃね!」
あかねはそのまま走りだした。