その時あなたは

趣味で書いている小説をアップする予定です。

カテゴリ: ユーガトウ




 あの声に応えてはいけない。
 応えた者は向こう岸。
 帰ってこれない、向こう岸。
 帰りたいなら……
 あの声に応えてはいけない。
 声がどんなに魅惑的であっても。

「ファイ、オー」
 体育館に声が響き渡る。
 そして、床を跳ねるボールの音。
 靴底が生み出す音が、鳥の声のように思える。
 今、ここでは、土谷高校女子バスケットボール部の練習が行われている。
 体育教師の川西祐介は、笹崎翔子と共に女バスの顧問をしていた。ただし、笹崎翔子は進学クラスの担当の為、実務というか、事務処理以外は、ほぼ川西祐介がやっていた。
 川西は体育教師だったが、髪は長かった。比較的若いこともあってか、前髪も適当に垂らしていて、染めている訳ではないが茶髪だった。染めている訳ではない、というのは初めての授業や、部活動での最初の挨拶の時に、必ず本人が入れてくるネタだったので、本当に髪が痛んで茶色めいているのか、染めているのかは判らなかった。
 川西が、何かディフェンスについて指導を始めたが、何かイヤな予感がした。
 顧問の手が、道子の胸に軽く触れた。
 ……というか、あからさまに触っている。あかねには、指まで動いたように見えた。
「だから、やめてください」
「いやいや、そういうつもりじゃ」
「そういうつもりがないなら触れるはずないじゃないですか。さっきも神林さんにしてたでしょ」
「……クズ教師」
 イヤな予感はこれか、とあかねは思った。
「やっぱり顧問変えねぇと」
「そうだね」
 部員は口々にそう言っていた。
 練習の途中だったが、道子と橋本部長はもう一人の顧問である笹崎先生に事情を話して、教師として退場してもらうか、少なくとも部活の顧問から退場してもらおう、と考えていた。それは部員全員の総意だった。
 あかねは今日も神林が、体育館の入り口で手を広げて皆を引き止めているのを見た。
「ね、だめだよ。先生反省してるじゃん」
「みく、今日だって触られて嫌がってたじゃん。忘れたの? みくの為にもなるんだよ」
 神林は首を振る。
「やめようよ。クビになるんだよ、収入がなくなったら、生活出来なくなるんだよ、そんなことあなた達が勝手に決めていいと思ってるの?」
 あかねはその理論が良く分からなかった。
 大体、もう何度も反省する機会はあった。それなのに未だに隙をみては体を触ってくる。根本的な人格に問題があるのだ。
「生徒の体を触るのは、人生を棒にふるようなことでしょ?」
「体を触れずに指導すること出来ないじゃん。暴力じゃないんだし」
 だんだん、みくも切れてきたようだ。あかねは思った。またみくが暴れて、川西先生が土下座して、また様子みることにする、ってなるので終わりだ。
 あかねは町田に言った。
「結局、いつも通りだね」
「そうね」
 町田も興味なさそうにそう答えた。

 練習の帰り、あかねは帰り道が一緒の友達と話しながら歩いていた。
「あかね、今日はスマフォもってきてる?」
「もってきてるよ」
 あかねは取り出してみせた。
「例の試合の動画アップしてあるらしいんだ。あかね、落としてないでしょ」
「うん。なんか今月もう容量がヤバくて」
「じゃあさ、ちょっとタダのWiFiスポットあるんだけど」
 上条がそう言い出した。
「あ、もしかしてあれ?」
「あれヤバイ、って話だよ」
「ビッチだっけ? そんな感じの変な名前のWiFiポイント」
「それそれ」
「つなぐとヤバイって話。パスワード掛けてないところはヤバイって」
「だいじょうぶだって」
「速いの?」
「私もあの試合見たいな〜」
 あの試合か、とあかねは思った。もう転校してしまったのだが、元土谷高のバスケ部にいた、超美人で、超バスケうまい先輩が出た試合のことだった。その先輩は遠山美樹と言って、うちらの代はその先輩に見蕩れてバスケ部に入った子も多いという、伝説的な部員だ。
 たしか、あの試合の動画、めっちゃくちゃ容量が多いから家にWiFiがある子とか、パソコンある子しか見たことがない、という話だった。
「私以外にスマフォもってないんだっけ?」
「いやもってるけど…… あかねのが一番最新じゃん」
 最新というのは表現がいいのだが、買ってもらったのが一番後だ、というだけのことだ。あかねは、そのヤバイ、と言われているネットにつなぐのが引っ掛かっていた。
「えー、別に最新じゃなくてもよくね?」
「あかねは、美樹先輩の試合見たくないの?」
「……みたいけど」
「じゃキマリ!」
 ずるい、とあかねは思った。一対一では言わないのに、集団になると誰かが調子にのってこういうことを言ってくる。
「分かったよ」
 折れる自分もいけない、と思いながらも、あかねはしぶしぶ承諾した。
 そのWiFiは、ちょっと校舎をぐるっと回って体育館の裏手の方にあった。近所の民家のWiFiなのか、学校側にあるのか、細かい位置までは分からなかった。ただ、そこに行けば入る、という話が回っていた。
「確かここなんだよ」
「どうやんの?」
 あかねはいっそつなぎ方を知らないフリしてやろうか、と思った。
「あたし知ってる。貸して」
 チッ。
「あれ、そんなWiFi無いよ?」
「リストの更新って時間掛かるよ」
 クッソ!
「なんか言った?」
「何も」
 あかねは答えた。
 皆も自分のスマフォで繋ぐのがイヤだからあたしのにした、というのミエミエだった。
「出てきました…… これですこれ」
「BITCHって酷い名前つけるよね」
「つなぐよ? いい?」
 ここまで勝手にやっといて、最後の最後に聞いてくるなんて…… あかねはもうどうでも良くなっていたが、少し考えたフリをした。
「えっと……」
「もう! いいでしょ?」
「……分かった。いいよ」
「接続!」
 写真が流出したりとか、ウィルスとかが感染(うつ)っちゃったりとか、そんなことになりませんように。あかねは心のなかで手を合わせた。
「動画のURL知ってる?」
「えっと…… で…… はい」
 私の『リンク』からURLをコピペしていたようだ。
「あ、速いね!」
「いけるよ、あかね」
「めっちゃ速い」
 ダウンロードの進行を見てると、確かに速い。
「始まるよ。あかね! ほらほら」
 スマフォを横に倒して、皆でその試合を見始めた。ダウンロード終わったんだから、一回ネット切って欲しいんだけど、とは言えなかった。
 動画が始まると、美樹先輩の動く姿に感動してしまい、あかねはそんなことは忘れてしまった。
 当然、上手いのもあるのだが、単純にそれではない。男子顔負けのプレーとかも感動するだろう、けれどこの美樹先輩のものは違った。
 品というか、女性らしさというものまで昇華している気がする。あかねは思った。パス出しするフリをするだけのことなのに、妙に色っぽい。短髪なのだが、チラっと振り向く度に髪がなびいて、それが嫌味でないところが凄いのだ。
「いいねぇ」
「先輩、なのに、なんか、かわいいんだよ。これがたまらない」
「髪とハチマキだけで萌える」
「なんか懐かしい……」
 この姿を入学直後の説明会で見て、皆バスケ部に入ったのだ。あの馬鹿スケベ教師が顧問だとも知らず。
『応えてはいけない』
「え?」
 あかねは誰かが耳元でそう言った気がして振り返った。
「?」
 上条だけが少し反応したが、直ぐに動画に見入ってしまった。
「あ!」
 ブルブルとした振動とともに、画面に通知メッセージが入った。着信のようだった。
「あかね、電話」
 スマフォを受け取ると、みんなと反対を向いて電話に出た。
「何、お母さん」
「今日塾でしょ、これから、お弁当渡しに駅に行くから」
「あ! 少し遅くなる」
「じゃ、少し待ってから家でるね」
「ありがと」
 電話を切った。
「ごめん、今日塾だった」
「え〜 見れてないよ〜〜」
「残念だけどしかたないよね。こんど見せて」
「絶対だよ!!」
「うん。本当ごめん。ごめんね。先に帰るね! じゃね!」
 あかねはそのまま走りだした。
 

 安田美沙は、学校からの帰りに図書館に寄ってから塾へと行く途中だった。長い髪は校則もあって、おさげ髪にしていた。歩く度に、手に持っている鞄と同じように、ゆらゆら揺れた。
 歩いていると、目の前の角から、見覚えのある女性が出てきた。あれ、と思って少し思い出すと、声を掛けた。
「あかねのお母さん!」
「ああ、美沙ちゃん、こんばんは」
「こんばんは。あ、それ、あかねのお弁当ですか?」
「うん、なんか今日はちょっと遅れちゃったから、駅で渡してって言うんだけど…… こっちも買い物とか時間ないのよね」
「それなら、私が預かりましょうか?」
「美沙ちゃんも塾だもんね…… けど、どれくらい遅れるんだかわからないからさ。あんまり遅れたら、一緒に塾遅刻しちゃうでしょ、悪いわ」
「ちょっとまってください」
 美沙はそう言うと、すぐに『リンク』であかねにメッセージを入れてみた。
『坂登ったから、もう少し』
「お母さん、もう学校からの坂は登ったみたいなんで、2〜3分ですよ。私が渡しときます」
 美沙は受け取るように手のひらを上にした。
「そお? ごめんなさいね。じゃ、お願いね」
 そして、大きいお弁当の包みを美沙の手に載せた。ずしりとくるサイズと、重さに、思わずびっくりしてしまった。
「あ、大丈夫? 部活のある日は昼もこれくらい食べるのよ……」
「大丈夫です。渡しておきますね」
 美沙がそう言うと、あかねの母は、ありがとうね、と言い、来た角を曲がって帰っていった。
 美沙は、お弁当が大きくて重い為、お腹の前で両手で持って歩くことにした。自分がこの量を食べたら動けなくなってしまうんじゃないか、と思った。そして、これを二食食べて太ってないんだから、あかね、というかバスケ部って凄い練習量なんだな、と感心してしまった。
 駅近くまでくると、学校方向の道に、あかねの姿が見えた。どうやら美沙に気付いたらしく、手振って合図し、走り寄ってきた。
「あれ、お弁当持たされちゃったの?」
「違うの。私が持っていきますって言っただけ」
「ありがと〜。重かったでしょ」
 あかねは、両手で差し出したお弁当を、ひょい、と片手で拾い上げた。
「びっくりしたよ。これ鞄に入れてるの?」
「うん。恥ずかしいけど、これくらい食べないとお腹すいちゃうんだよ」
 歩きながら、そんなことを話しているうちに、塾のあるビルについた。
「あ、美沙。今日帰るの何時?」
「いつもだと九時ぐらいだけど」
「じゃ、下で待ってる。じゃね」
「うん」
 そういって教室に入っていった。
 あかねの受けている授業は、美沙とは違って一時間半ぐらい前に終わるはずだった。
「だいぶ時間待つよね? バクバクでも行って待ってて? 行くから」
「ああ、そう……ね。じゃ、メガバクバクバーガーでも食べて待ってる」
「そうして。じゃ、後で」
「うん」
 あれだけの弁当を手に持ちながら、塾の後にメガサイズのバーガーを食べるというのは凄い、と思った。ただ、明日でもなく今日会って話すというのは、何か特別な用件なのだ、と美沙は思った。 

 弁当の後の、眠たい授業も終わり、あかねは塾を出て、隣の隣のビルにあるバクバクバーガーへと移動した。母親には、美沙に勉強教えてもらう、とだけメールしておいた。あれこれ理由を並べるより、これが一番信用されるからだ。
 あかねはバーガーにかじりつきながら、学校の宿題をこなしていた。本当にここでやらないと、家に帰ってからでは集中して勉強する時間はなかった。母の家事の残りが回って来るし、弟からなんだかんか言われると、それにも手間が掛かる。
 宿題を終えると、少しスマフォで気晴らしにパズルゲームをし、靴底が傷んできたので新しいバッシュをネットでチェックしたりした。まだ美沙が来ないので、更に塾の宿題を解いていると、ようやく美沙がトレイを持ってやってきた。
「私もお腹すいちゃった」
 美沙のトレイには、チキンと赤茶色の飲み物が載っていた。
「そうだよね〜 私もチキン買ってこようかな」
「一つあげるよ」
「悪いよ」
「平気平気」
 美沙は一欠片をあかねのトレイに乗せ、チキンを食べ始めた。
「もうちょっとだから、宿題やっちゃうね」
「うん」
 少しばかり、お互いが黙ったままの時間を過ごすと、宿題を終えたあかねが切り出した。
「……美沙、スマフォとか詳しいよね?」
「まぁ、多少。スマフォがどうしたの?」
「学校の近所に、変んなWiFiがあってさ」
「あっ、あれだ。知ってる知ってる。パスワードの掛かってないやつ。噂になってたよ。あ、つないじゃだめだよ。何か通信覗かれてるかもよ」
「えっ」
 美沙が急に表情を暗くした。よっぽど自分の顔が動揺したのだ、とあかねは思った。
「あっ…… うん。あかねの相談、分かった。つないじゃったのね?」
 あかねはうなずいた。
「たしか、無料でウィルススキャンするソフト、あったんじゃないかな。ちょっとまてね。こっちで調べてみる」
 美沙が自分のスマフォを取り出して、調べ始めた。調べながら、あかねに訊ねた。
「変なメールとか来た?」
 あかねは、念のため確認してから答えた。
「来てない」
「『リンク』は使ってないよね?」
「つないでる時は使ってないけど……」
 あれ? ダウンロードする前に使ったのかな??? あかねは分からなくなった。
「あかね携帯会社どこだっけ」
「白い猫のところ」
「ああ、あそこね。分かった。どうしよう。いやじゃなかったら、私のやつからアクセスしてみる?」
「携帯会社に?」
「他に何か通販サイトとかアクセスしてる?」
「うーん。それはないけど」
「じゃ、可能性があるのは携帯会社かな。『リンク』で変なメッセージは?」
「ない…… えっ!」
 画面に『リンク』の通知が入った。
「えっ? 今の?」
「怖い。一緒に見てよ」
「うん。あかねが良ければ」
「いいよ、怖いもん」
 あかねはスマフォのロックを解除し、テーブルに置いて、美沙を隣に座らせた。
 『リンク』の画面が表示されている。
 下には見慣れぬスタンプ。
 そして、バイト募集のメッセージ。
「これ、やばい?」
「う〜〜ん。ブロックすれば大丈夫じゃない? たしか、これ、プロモーション用の仕組みで、ああいうWiFiアクセスで回数制限付きでメッセージ送れるやつだったはずだよ。明日までに調べてくるよ」
「ブロックってどうするんだっけ」
「やってあげる」
 美沙が目の前で一つ一つ確認しながら、操作をしてくれた。とりあえずメッセージは大した問題ではないらしい。
 そして変なことになっていないかのチェックをしてもらって、特に問題点はないらしいことが分かった。あのWiFiに接続する時に、裏で『リンク』を起動したままだったのはまずかったらしい。
 色々と話ながら、時間が遅くなったので店を出て、大通りまで歩きながら話していった。美沙との別れ道にくると、 
「あかね、ブロックだけで足りるのかは今晩調べておくからね」
「色々、ありがとう。私、明日、部活ないから、一緒に帰ろう? 私がメガバクバクバーガーおごるよ」
「メガは食べ切れないから、チキンがいいな。とにかく明日」
「ああ、そうか。うんチキンね。じゃね」
 美沙が、大通りの奥へと去っていくと、あかねは手を振ってから、小道の方へ入って自宅へと帰った。

 あかねは朝練の為に早めに学校にきていた。体育館は各部活でシェアするので、午後取れない時に優先的に朝体育館が取れることになっていた。
 規定の時刻になるまで鍵を渡してもらえず、体育館に入れない決まりだった。体育館前まで来てから、開く時間にはまだ早いことに気付いてしまい、あかねは暇つぶしに体育館の周りを歩いてみることした。
 静かだ、と思った。常に日陰になるせいか、土に苔がついていて、早く歩くと滑りそうだった。あかねは、ちょっとした探検気分もあり、その土の上をゆっくりと歩いていった。
「あかね!」
 学校の外の壁と体育館で挟まれた細い場所を歩いていると、急に声を掛けられた。
「えっ!」
 びっくりして振り返ると、そこには山川道子がいた。
「何やってるの?」
「早く来ちゃったから、体育館の外ぐるっと回って見ようと思って」
「ミチは?」
「あかねを脅かしてやろうと思って」
 あかねはここで進むべきか、戻るべきか悩んだ。道子に、戻ろうか、と言えば一緒に戻ってくれそうな感じではある。
「もど……」
「面白そうだから、もっと行ってみようよ」
「えっ!?」
 道子がこの体育館の周りに何を求めているのか分からなかったが、とりあえず一人でなければそれなりに楽しいかもしれない、とあかねは思った。
「う、うん」
 二人になって、景色が変わるわけでもなかった。壁から放り込まれるのか、カラスや小動物が持ち込むのかわからなかったが、ゴミがあちこちに放置されていた。
「これ、拾おうか?」
「ゴミ袋もないし、今度にしよ」
 ゴミには感心がない感じだった。ゴミを見たのになにも対応しない、というのもなんか心に引っかかるものがあったが、トングとゴミ袋でも持ってればともかく、今の状況ではやめておいた方が無難そうではあった。
「へぇ、こうなってるんだ」
 ちょうど歩いているところが、体育用具室や、小さな小部屋の外側にあたり、普段見ない風景だけに、こんな風景なのか、と感じてしまうのだろう。
 道子が言った。
「この壁の向こうは何なんだろ?」
 あかねはジャンプして見えるか試してみた。体育館の壁を蹴って上がれば、少しは見えるかもしれない。
「いけるかも」
 あかねは下が苔で滑るので、体育館の壁を蹴ってジャンプすると、壁の外が見えた。
 その風景に見覚えがあった。
「あれ?」
「なんかあったの?」
 ただ、いつ見た風景なのか、思い出せないでいた。毎日見るようなものではないのだが…… どっかでみたような。
 道子も、同じように壁を蹴ってジャンプした。壁より高く上がって、壁の外を見てから落ちてきた。
「ああ、ここが体育館裏なんだ」
「知ってるの?」
「変なWiFiがあるって」
「ああ! ああ……」
 あかねは記憶が繋がるとともに、少し気分が落ち込んだ。
「あかね、どうしたの?」
「いや、別に」
 あかねは昨日そのWiFiにつないでしまって、『リンク』に変なメッセージが表示されたことを話した。
「それくらいいいじゃん」
「それくらいですめばね……」
「え? まだなんかあるの?」
「まだないけど。ちょっと怖くて」
「気にしすぎ。大丈夫だと思うけどな」
「ミチ、ありがとう」
 道子は笑って返した。
 あかねは、気を使ってくれる友人に感謝した。
「あれ?」
「なに」
「静かに。声が大きい」
 道子には何かが聞こえたらしく、その方向を指さした。
「あっちっぽい」
 二人は壁沿いにしばらく進むと、確かに何か声が聞こえてきた。
「え……これって」
「……」
 その声は…… その、あの声…… いやらしい声。
 あかねは、妙に興奮してしまう自分に気づく。
「アレだよね」
「コレ?」
「こんな声出るの?」
「し、知らないよ」
「って、この声……」
 道子が何か分かったようなそぶりをみせた。
 声の調子テンポがドンドン速くなり、ああ、気持ちイイことしてるんだなぁ、という感じだった。あまりに凄くて少し気持ちが引いた。窓には手が届きそうで、手が届けば懸垂で見えるかもしれなかったが、そうまでして覗こうとは思わなかった。
 道子が本当に小さい声で言った。
「やばいから、戻ろう」
 もと来た方を指さした。
 あかねは、前の方を見て言う。
「そっちに行った方が早いけど」
「ダメ。戻るよ」
「なんで?」
「いいから」
 あかねは道子が言うまま、静かに壁沿いに来たところを戻った。
 体育館の入り口に出ると、道子は言った。
「ヤバイよね。これ黙っとこうね」
「何か分かったの?」
「とにかく黙っとこうね」
 確かに、誰が、誰とエッチなことをしていたにしろ、場所が場所だけにヤバイだろう。生徒同士、生徒と教師、教師と教師。どんな組み合わせでも聞こえては行けない場所であることは間違いなかった。
 あかねは、スマフォに続いて、また面倒なことが舞い込んできた、と思った。

 道子は朝練が始まるまでの間、ずっと体育館の入り口で座っていた。
 体調でも悪いのか、と聞くとそうじゃない、と言った。
「わかるでしょ?」
 あかねには良く分からなかったが、例の体育館裏での出来事で、少々のぼせてしまったのだ、と解釈し、なんとなくうなずいて放っておいた。
 やがて部員が揃い、朝練が始まろうか、という時に道子はやってきて、なにか笑っているような表情をした。それが何を意味するのかは分からなかったが、ちょっと気味が悪かった。
 あかねは道子にたずねた。
「ミチ、なんでずっと入り口にいたの?」
「えっ、ああ」
 あかねは走りながら、道子をつっついた。
「本当に、なんでもないよ」
「教えてよ」
「なんでもないことだから」
「ソコ! うるさいぞ」
 先頭を走る橋本部長から注意を受けた。
 どうせ大したことでもないのだろう、と思い、あかねはそれ以上追求するのを止めた。
 ただでさえ、体育館でエッチしていた、であろう声の事があり、さらにミチから話を聞くと、話してはいけない事のレベルが数ランク上がってしまう気がしたからだった。
 あかね達が練習していると、顧問の川西がいつのまにか体育館に入っていて、レギュラー陣に何か指導していた。先生は学生時代からバスケをやっていたらしく、体育教師である為か、今でもバリバリに動けるし、テクニックもあった。
 もう一人の顧問は、体育館に顔を出すのが稀で、まったくバスケの指導という面ではなにも出来ない人だった。真剣にバスケに打ち込む部員からすると、多少セクハラがあっても、川西先生がやめると部活がどうなるんだろう、という危機感があるようだ。
 逆に、あかねのように、遠山美樹というカリスマ選手に惹かれて女バスに入ったような連中には、まったくもってただのセクハラ教師でしかなかった。
 そういえば上手くなろう、と思った時期があったな、とあかねは思い出した。
「どうしたの?」
 突然、町田さんが話かけてきた。
「ん、どうもしないよ」
「なんかぼーっとしてる」
「あ、ちょっとね。思い出していた」
「昨日、あのネットにつないだけど、スマフォなんともない?」
「それが『リンク』に変なメッセージ来たんだよ!!」
「マジ?」
 あかねは、驚きかたがなんか変だ、と思った。
「あの後さ。私もスマフォでつないじゃった」
「あ、そういえば、『リンク』を起動しっぱなしだと、変なメッセージくるって。起動してた?」
「してないと思うけど」
 あかねは少し考えてから言った。
「私の友達に詳しい人いるから、ちょっと話してみるね」
「ありがと」
 あかねは、朝のことを思いだし、昨日のWiFiがすぐそこの体育館外だということを思いだして、ちょっとチェックしてみようと思った。

 朝練が終わると、あかねはスマフォを取り出して、例のWiFi近くと思われる、体育館隅に行った。顧問の川西がめずらしく声をかけて来た。
「どうした岩波、彼氏からのメールか?」
「そういう発言もセクハラですよ!」
 あかね自身はそんな発言、大したことない、と思っているが、川西にとっては一大事のはずだ。
「あっ、すまん。悪かった」
 土下座をしようとしたのか、膝立ちになったので、あかねは慌てて言った。
「気にしてませんから。一人にしてください!」
 すっと立ち上がって、川西は体育準備室の方へ走っていった。
「まったく、クズ教師」
 あかねは聞こえないよう小声で言った。
 スマフォの設定画面を見ると、電波マークは非常に弱かったが、WiFiに例のBITCHが表示された。
「体育館内でも入るんだ……」
「あれ、あかね? どうしたの? 早く教室行こうよ」
 あかねは声の主が、神林みく、であることに少々驚いた。同じクラスだが、そんなに親しくはない。こんな場面で声をかけられるなんて。普段と違うことばかりで、あかねは少し面倒くさくなってきた。
「あ、うん。行く行く」
 美沙に全部話して、整理してもらおう、とあかねは思った。

 あかねと美沙は家の近所のバクバクバーガーに居た。
「本当にチキンでいいの?」
「うん。メガバクは食べ切れない」
「じゃ、買ってくるね」
 美沙に席を取ってもらって、あかねは買いに行った。今日は偶然、貯まっていたポイントに気がついて、メガバクを二つと、チキン、飲み物二つを頼んだ。
 フロアを上がると美沙が席から手を振った。
「メガバク二つって、私、チキンと飲み物で良いって……」
「あ、違う違う。私が食べるから大丈夫」
「今日って部活ないんでしょ? そんなに食べて大丈夫?」
「い、今のところ」
 そう言いながら、あかねは、少しだけ自分のお腹のあたりのことを思い浮かべた。
「そんで、昨日の件だけど」
「どうだった。実は私以外にもつなげてしまった人いてさ」
「うん。『リンク』はブロックするだけで大丈夫みたいだよ」
 あかねは安心した。安心したせいか、バクバクバーガーの匂いに改めて気がついた。
「美沙、チキンどうぞ。私もいただきます」

 美沙がチキンを食べ終わる頃には、あかねはメガバクを二つ食べ終わって、カウンターで水をもらってきて飲んでいた。美沙はカバンに入れていたノートパソコンを出して、何やらスマフォを操作していた。
「美沙のパソコン、外でもネット出来るの?」
 美沙は首を振った。
「テザリングっていうの。スマフォを使ってインターネットに接続するんだよ」
「見ていい?」
「いいよ。じゃ、そっち行こうか?」
 美沙があかねの隣に移動して、パソコンの向きを変えた。
 美沙のパソコンに『美沙のスマフォ』という表示があった。
「あれ? パソコンに」
「そう、テザリングするから」
 あかねは水を口に含んで、美沙が操作するのを眺めていた。
 パッと画面が切り替わって、ブラウザで検索サイトを開いていた。
「ちょっとだけ気になるからさ、調べてみたいんだよね。つないだWiFiってなんて名前だったっけ。噂は知ってるんだけど」
「確かね。ビッチ」
「酷い名前ね。ちょっとまって、それ、綴りが分からないから」
 なにやら何回かページを開くと、今度はまた別のキーワードを入れて調べはじめた。
「ありゃ。あんまりよろしくない噂が」
「えっ、やめてよ」
「もう繋がないんだから大丈夫よね」
「実は、今朝試しちゃった」
「! あ、ごめん。WiFiのリストから削除してなかったかも!! あかね、スマフォ貸して」
 あかねはスマフォを美沙に渡すと、なにか必死にやってくれた。
「よかった。何も検出されてないみたい。後、WiFiのリストからも消しといたから。今度は近寄っても自動接続されないからね。また繋がないでよ」
「そんで噂って」
「ここみて。身内に不幸なことが起きたり。スマフォが動かなくなったり、だって。ここには、皮膚病に掛かったり、するってのもあるね」
「え、これ本当にウワサ、だね。なんか全然真実味ないじゃん。これなんて、呪われる、ってあるもん」
「え? どこ? ちょっと興味あるな」
「ココ、ココ」
「え? そんなこと書いてないじゃん」
「?」
 あかねは美沙の顔をじっとみた。
「マジで言ってる?」
「そっちこそ」
「とにかくココ、クリックしてみてよ」
 美沙が訝しげにカーソルをそこにあてて、タップした。
「え?」
「何? 何があったの?」
「システムエラーみたいね」
「もっとわかりやすく言って」
「ブラウザがクラッシュしたみたい」
「余計わからないよ〜」
「もう一回やってみる」
 美沙は何かパソコンを操作して、さっきと同じようにインターネットの画面を出した。じっと画面を読んでいた。
 しばらくすると美沙は言った。
「やっぱり分からない、どれをクリックするの?」
「これだよ」
 あかねはリンク先の要約に『呪われる』と書かれたところを見付けて指差した。
「……」
「これ、読めない?」
「うん」
 美沙は目薬を出して、右、左と順番に差してから、ハンカチで目を押さえた。
「疲れてるのかな……」
 あかねは、こんなにハッキリ見えるのに、とちょっと怖くなってきた。
「冗談じゃないよね」
「ごめん。本当に見えない」
「ちょっと操作していい」
 美沙がうなずいたので、あかねは恐る恐るそこにカーソルを持っていき、トラックパッドでタップした。
「え、どういうこと……」
「え、え、なんか変なとこ押しちゃった???」
「いや、大丈夫だと思うよ。なんでだろう、このリンク先見れないね」
「やめよう。忘れよう。ちょっと怖い」
 あかねは気晴らしにメガバクをもう一つ買ってくる、と言ってカウンターに行った。戻ってくると、美沙は集めていた楽しい動画のリンクから動画を見せてくれた。二人はイヤホンを共有し、動画をずっと見ていた。
 言葉には出さなかったが、二人はさっきのリンクや、WiFiの噂を忘れようとしていた…… 必死なほどに。

 美沙とあかねは、青葉に遊びに来ていた。たまたま、練習のない土曜日と、美沙が買い物に行きたい、と言っていた日がかさなったのだ。
 美沙は、好きなアニメのグッズを買うのと、パソコン用の新しいモニタを買う、ということらしかった。あかねは青葉には特に興味はなかったが、そこにあるラーメン屋さんとアイドルの劇場と、そこで売られているものを見てみたかった。
 美沙が言うままにあかねも店に入り、商品を見たり、行き交う人の格好を見ていた。青葉は、店の呼び込みの為に、奇抜な格好をした人が多く歩いていた。
 あかねは言った。
「メイドだけじゃないんだね」
「そうだね、イメージ悪いからね」
「え? メイドが?」
 あかねには、美沙の言ったことが良く分かっていなかった。
 美沙は少し口ごもりながら言った。
「あ、あれだよ。ふ、風俗とかさ、そういうイメージついちゃったでしょ?」
「そうかなぁ」
「特に男の人たちにね。だからもっとアニメ調に変えるんじゃない?」
「ふーん」
 あかねにとっては、衣装がカラフルで華やかだから、別にメイドでなくても楽しめるから関係ないや、と思っていた。しかし、こういうものに負のイメージがついたりすることがあるんだ、と意外に感じていた。
 あかねは、そんなふうに、歩きながらボンヤリとビラを配っている人たちをみていると、ふと、知っている顔を見つけた。
「あれ? ミチ?」
 すぐに小さなビルの入り口に入ってしまって、しっかりと顔は見れなかったが、ミチのようだった。山川道子、あかねと同じ女バス。
「美沙、ちょっとまって」
 袖を引いて引き止めると、ミチが入って行った小さなビルの入り口に向かった。
「どうしたの、そのビルには何も店入ってないよ」
 美沙はスマフォを見ながら言った。
「ちょっと友達がいたような」
「女バスの娘?」
「うん」
「なんか店とかあるなら、郵便受けに書いてあるんじゃない?」
 美沙が進んでビルの入り口に入ると、あかねも入った。そして壁に張り付いている小さいカードを見て、すぐにその建物がどういうものか分かった。
 それぞれのカードには、メールアドレスや電話番号、サイトのURL、そして、女の子の写真があった。写真も、服からちらりと胸やふとももを見せているようなもの。
 美沙がさっき言っていたようなこと。
「あかね、出よ」
「うん」
 ミチ、このビルに入ったんだったよね? まさか、違うよね。あかねは祈るような気持ちだった。
「ちょっと隣だったかも」
 あかねは隣のビルに入った。そっちにも多少同じようなものが貼ってあったが、メイド喫茶やコスプレ衣装制作・販売の店とかが入っていた。
「こっちだったかも」
「行ってみる?」
 あかねは答えに迷った。
「ど、どう思う?」
「自分がバイトしてて、ましてや、そういうことを言ってないんだったら…… 突然知り合いが来たらヤだな」
「そうだよね…… うん。やめとく」

 その後、二人は、あかねが行きたがっていたラーメン屋に入り、午後はアイドルの劇場を外からみたり、アニメのグッズを探したりして過ごした。ミチのことは全く頭から消えていた。
 美沙は買い物が一通り終わり、あかねも満足した頃だった。
「あかね、疲れたよ」
 美沙が肩に寄りかかったきた。
「バクバクでもよる?」
「え? カフェにしようよ、カフェ」
「良いとこあるの?」
 美沙は歩きまわっている最中に気になるところがあったらしく、そこに行こうということになった。
 カフェに向かう途中、あかねは暗い表情の、メイド服の女の子を見かけた。
 その子は別に知り合いではなかったが、あかねはミチのことを思い出してしまった。 
 カフェにつくと、美沙はキャラメル・ラテで、あかねはアイスココアを注文した。
 窓際の席につくと、美沙は満足気に今日買ったものを取り出しては説明し、次のものを取り出しては説明を繰り返した。
「……そうなのよ、そこがポイントなのよ」
「なるほどね」
 あかねには、一つ一つの細かいところは、良く理解出来ていなかったが、相槌を打つことに決めていた。
 美沙の話が尽きたころ、あかねは話を切り出した。
「美沙にね、ちょっと相談したいことがあって」
 あかねは、部活にいるセクハラ教師の話、体育館で聞いた声の話、WiFiが体育館でも繋がった話、もやもやとしていた話をすべて、話してしまった。
「いやぁ……」
「どうしたの」
「お腹いっぱいって感じです」
 あかねは逆に、便秘が治ったような気分で、すっきりしていた。
「どうにかならないかな?」
「どうもこうも。まずは、エロ教師はさっさと退場してもらった方が良いんじゃない」
「あ〜 そう思う。ホント」
「体育館の声だけど…… これはもうちょっと検索しちゃうよ。どっかの掲示板に書き込みでもあるんじゃないかな〜 気になるね〜 誰だろうね〜 って感じね」
「分かったら教えて…… う〜ん。やっぱやめとく」
「あら。面白そうなのに…… WiFiの話だけど。あれはよっぽど壁がないかぎりはある程度広がりあるから、体育館の端なら届くわね。というより、体育館にWiFi機器がおいてある可能性はあるね」
「そうか…… なんか調べる機械とかもってる?」
「持ってないけど、盗聴器みたいな小さいものじゃないから、見れば分かるんじゃない?」
 あかねには良く理解出来なかったが、調べて欲しかった。
「分かるの?? じゃ見つけようよ。物騒だもん」
「うん。いいよ」
 あかねは、具体的な日を決めて、美沙と体育館を捜索することにした。

 青葉からの帰り、二人で並んで電車のシートに座っていると、美沙が寝てしまった。そうしているうち美沙はあかねの肩に寄りかかってきた。あかねは、別にそれがどうとも思わなかったが、なんとなく美沙の匂いを嗅いで、なんともいえない気分になった。あかねは、これが女の子の匂いだ、となんとなく思った。
 あかねも美沙の髪を頬で撫でるように顔を傾けて、美沙の方をみた。美沙の膝は、寝ているのに、きちんとそろえられていた。ゆだんするとすぐに膝が開いてしまう自分とくらべ、なんて女子力が高いんだろう、という気がした。
 あかねは、話し相手がいなくなったのでスマフォを取り出して、ネットを見はじめた。
「ん?」
 あかねは、『リンク』のタイムラインを開いてみた。
 すると、青葉でミチを探して入った小さなビルに貼ってあった、小さなカードの画像がいっぱいアップされていた。そしてその隙間を埋めるメッセージも意味のよくわからない言葉ばかりだった。
『今度制服姿見せてよ〜』
『去女川駅。ホ別3』
『別にいご、〜20:00まで』
『去女川、写メくれ』
『別2』
 そんなメッセージが延々入っている。
 あかねは、表示される内容はピンと来ないが、自身の勘が、ヤバイ、といっているのを感じた。しかも、もう、どれが誰だかすら分からないぐらいの見知らぬIDからのメッセージが入ってきている。
「美沙」
 あかねは、膝を軽くたたいた。
「美沙」
 肩で揺すってみた。
「美沙!」
 耳元で呼んでみた。
「ひゃっ!」
 ようやく美沙が起きた。
「どうしたの? あれ、泣いてるの」
「美沙、携帯が…… 『リンク』が」
「?」
 美沙にスマフォを渡そうとしたが、手が震えているのに気づいた。
「見ていい?」
 あかねはうなずいた。
 美沙がメッセージを見ると、知らない女の子の顔写真や、場所を示す画像やら写真、数値を伴う短いメッセージが沢山あった。
 美沙は、以前あかねのスマフォにいれたセキュリティソフトのログを見た。特に何も検出されていなかった。
「これ、『リンク』のIDバレしているね…… 削除するしかないよ」
 あかねは、自分のほおを涙が落ちていくのを感じた。
「削除しちゃうと、今まで購入したものとかもなくなっちゃうけど…… これ、多分やばいね」
「うん」
「やっぱり、最初のあのメッセージの時にIDバレしてたのかも」
「美沙、私、操作出来ない。リンクID消して……」
「私もしたことないけど」
 美沙は少し戸惑っていた。
「お願い」
 あかねは、美沙の肩に顔を伏せた。
 美沙はあかねの背中に手を回して、さするように手を動かした。
「分かった、ID消すから。泣かないで」
 IDが消えると、過去のメッセージも、買ったアイテムも、全部捨てることになる。金銭的なこともショックだが、これが全部友達にも波及していたら、大変なことになってしまう。
 あかねは美沙にしがみつきながら、横目で操作を見ていた。本当に削除されてしまう。あかねは目をつぶった。
「消すよ」
「うん」
 あかねは画面を見なかった。
「消した。これであの変なメッセージも出ないよ。また、新しいID取らないと」
「しばらく『リンク』はヤダ、やらない」
 あかねは美沙が背中や頭を撫でてくれているのが嬉しかった。
「そんなこと言わないの」
「本当にしばらくやらない」
 そんなことをやっているうち、二人が降りる駅に近づいた。
「あ、次だよ、あかね、駅つくよ」
 ポンポン、と背中を叩かれた。
「うん。起きる」
 あかねは、美沙からスマフォを受け取り、ろくに確認もせず、そのまましまった。美沙は棚にあげていた、アニメグッズを卸し、膝の下に立てていたディスプレイの箱を持ち上げた。
 その時、ブレーキ音がして電車が止まった。
 立っていた美沙が転びそうなところを、座っていたあかねが支えた。
「え! なに? まだ駅じゃないよ」
 あかねは振り返って確認した。
「本当だ、なんかあったんだ……」
「いつまで止まるんだろう、こういうのなったことないから、ちょっと怖い」
 車内アナウンスがあったが、どうやら線路内の立ち入りがあった、ということらしかった。確認終わり次第出発します、を繰り返していた。
 あかねは、思ったよりも家に付くのが遅れそうだったので、母にメールを入れようとしてスマフォを取り出した。
「え……」
 あかねは、スマフォの画面をみて恐ろしくなった。
「どうしたの?」
 美沙は、しばらく立っていたが、長くなりそうだと思ったのか、あかねの隣に座った。
「あかね、どうしたの」
「変んなメールが」
 あかねが見せた画面を、美沙は読み上げた。
「削除すんなよ、ID復活しろよ…… あ、このメールアドレス」
「何???」
「あのWiFiと同じ綴り」
「まさか、これも、あのWiFiに繋いだせいなの??」
「ちょっと分からないけど、それくらいしか理由ないし……」
「もう嫌!」
 あかねは大声でそう言った。
 と、ほぼ同時に大きな物音がした。
 周囲の乗客は、一斉にあかねの方を見た。それが判ると、あかねは耐えきれずに泣いてしまった。

 あかねは、青葉からの帰りに、電車の中でスマフォを床に落としてしまった。そのせいでスマフォのガラスにヒビがはいった。それだけではなく、通話やネットの機能にも障害が出てしまい、結局、買い替えなければならなくなってしまった。
 あかねは両親に、なぜそんな乱暴につかうんだ、としかられた。乱暴に使ったわけではないのだ、奇っ怪なメールを驚いて手を振った際、手が滑って床に落ちたと説明したが、それにしても不注意だと言われた。
 月曜日に学校に行くと、今度は友達から『リンク』の応答が無いことを色々言われ、その都度、タイムラインに変な書き込みがあった話や、携帯が壊れたことを説明した。いつもなら午前の授業が終わるころには、お弁当は半分くらいになっているのだが、今日はまるまる残っていた。
 昼休みになると、あかねはお弁当を10分たらずで平らげたてしまった。食べ終わる時間が分かっていたのか、と思うほど、ちょうどその時に、となりのクラスの美沙が声を掛けてきた。
 あかねが廊下に出ると、美沙が言った。
「あかね、大丈夫だった?」
「やっぱり怒られたよ〜」
 あかねは、親に起こられたことを美沙に話した。そして、あかねはある考えを美沙に伝えた。
「やっぱり、あのWiFi、突き止めてやめさせよう」
「うん、けど結構ヤバイ感じだから、大体の位置を調べるくらいにしない?」
 あかねは思った。あのWiFiの位置を突き止めたら、警察に言うべきものなんだろうか、それとも学校内のことだから先生に言ってみるのか、と。
「やっぱりヤバイのかな。警察に言うべきなのかな?」
「警察って、何か被害がないとダメなんじゃない?」
「ID知られたし、変な脅迫メール送ってこられたし」
「確かにね〜 携帯会社に言えば、履歴とか送り主とか判りそうだよね」
 そうやって美沙と話していると、教室から出てきた、女バスの神林みくが声を掛けてきた。
「あかね、スマフォ壊しちゃったんだって?」
「うん。部活の連絡受けれなくてゴメン」
「それはいいんだけど……」
 神林は続けた。
「あかね、例のWiFiにつなげたって本当? スマフォ壊れたのって、そのせいじゃないの?」
 美沙が口を挟んだ。
「いや、WiFiに繋いだからって、スマフォは壊れないでしょ? あかねのは物理的に壊れたんだもん」
 神林はまったく意に介さぬように言葉を続けた。
「あのWiFiにつなぐと呪われるよ。だからもうスマフォを新しいのに交換しても、絶対つないじゃダメだよ。また呪われて、また壊れるから」
「え?」
 あかねは耳を疑った。美沙ほど詳しくはないけど、WiFiで呪われると思うほど馬鹿ではない。
「馬鹿だとか思わないで。本当なんだから」
 まるで始めから『馬鹿だ』と言われることを知っているようだ。
 神林は睨みつけるような表情をしていた。
「とにかく、絶対につないじゃダメよ」
 そう言うと、走っていってしまった。
 美沙が言った。
「あの子、本気で言ってんのかな?」
 あかねは首を振った。
「わからない。クラスも部活も一緒だけど、みくは、ちょっと変わった感じの子だから」
「それにしても、ね……」
「いや、でも呪われるかどうかは別として、あのWiFiには自分のスマフォでは絶対つながないよ」
「そうだね。じゃあ、私も調べる時は捨ててもいいパソコンかなにかをもってこなきゃね」
 美沙はなんかやる気が湧いてきたようだった。あまり危険なレベルまでは調べたくないな、とあかねは思った。
「呪い、と言えば、バクバクで見れなかったサイト、見れたよ」
「あの時は、開くと落ちたじゃん」
「パパのパソコンで、ブラウザを別のにしたら見えた」
「呪いのこと書いてあった?」
「うん、呪いというか…… とにかく犯罪臭がするというか…… あんまり繋いじゃいけない、ってのは判るね」
 美沙が腕を組んで、少し考えた後、言葉を続けた。
「あかねのスマフォのタイムラインにあったメッセージ、あれだよ、売りつーか。エンコウとかいうものみたいだよ。そのサイトにもそういう内容あったし。やっぱりWiFiに関係してるのかも」
 なんでこの学校の体育館に…… あかねは、すぐ川西のことが浮かんだ。もしかして、あのセクハラ教師が?
 嫌な予感がした。このまま川西を顧問にしたままだととんでもないことが起こる、そう思った。

 放課後、あかねは美沙と話し込んでしまい、部室に行くのに遅れた。部室に入るともう既に皆が去った後で誰もいなかった。あかねは一人で着替えると、バッグを持って体育館に向かった。
 体育館につくと、ちょっと騒ぎが起きていた。部員がコート中央に集まって何かもみ合いになっている。明らかに練習ではない。
 どん、と誰かが突き飛ばされた。
 突き飛ばされたのは山川道子だった。山川は言った。
「なによ」
「どうして神林の味方なのよ」
「真美、やめなよ、あんた部長でしょ」
 バシ、っと叩くような音がした。
「痛い! なんなの、あんた」
 ミチが真美をひっぱたいた。
 堤防が決壊したように、部長とミチの叩き合い、髪の引っ張り合いが始まった。全員で、二人を引き離したが、なじりあいは止まらなかった。
 二人共、三四人で腕を後ろに引かれ、ちょっと距離をとった。
 ミチが言った。
「偉そうに指図しないで」
「あんたが間違ってるから言ってるんでしょ」
「部長だからって、なんなんだよ! いい子ぶって」
「いつからセク川なんかの肩もつようになったの?」
 あかねは『セク川』と聞いて、ようやくこの場に顧問の川西がいないことに気付いた。また騒動を引き起こすだけ引き起こして、体育準備室に引っ込んだか、と思った。
「みくがいつも言ってる通りよ。ちょっと体が触れたことを大げさに言って、他人(ひと)の人生どうなってもいいの?」
「ちょっとじゃねーだろ、もういやなんだよ。部員の代表としてもう我慢できないんだよ!」
 橋本部長も今日は本気だ、とあかねは思った。とにかく川西本人はいつも土下座するばかりで、何を言ってもそんな感じだから、『セク川』の文句を真美部長がずっと聞き入れて、各々で声をあげずに抑えてきた。部長として、書面にしたり、練習を中断して川西と話しあいを持ったり、そういうことをしているのだが、あの通り、まったく反応がなかったのだろう。切れるのも無理はない、あかねは思った。
 それにしても、神林だけでなくミチまで川西の肩を持つなんて。
「部長、私も思います」
 神林が言った。
「この場で川西先生が失職したら、困るのは川西先生だけじゃないんですよ」
「どういう意味よ」
「セクハラされてきたバスケ部、ということが公になったら、私恥ずかしくて表を歩けません」
 いや、もうだいぶ他の生徒も知っていて、実際はそういう目で見られてるんだけど……
「それは」
「雑誌の取材が来たりして、話したくもないことを聞かれたり、写真を撮られたり」
 部長が負けそうな雰囲気で、すこし驚いた。確かに、みんなそれが嫌なのだ。川西もそういうつもりなのか、大体均等に触ってくる。特定の人だけが被害を被ったのなら、その人だけを庇えばいいが、全員となると単純にこれを公にして川西をクビにすればいい、というものでもなくなる。
「やめましょう」
 町田が言った。
「なによ、愛理」
「一度考えた方がいい、ってこと」
「セク川派、ってことね」
「私はイヤよ。そんな変な雑誌に取材されたりするのなんか」
 この発言にうなづいたり、相槌をうったりする部員がいた、人数的には半分くらいいるのかも、そう思うと、あかねはちょっと驚いた。
 あかねは、ある考えが浮かんだので手を上げて発言した。
「はい! ちょっと意見が」
「授業じゃないんだから、挙手しなくともよろしい」
 橋本部長が言った。
 あかねは手を下ろして、発言した。
「じゃ、言わせて。投票で決めようよ。もうこの事実を公にするか、しないか
ってとこまで来てる訳じゃん。投票して意見を決めちゃおうよ」
「ダメ!」
「今挙手で決めちゃおうよ」
「まだ悩んでいる人いっぱいいるよ、決められないでしょ」
「今言われてもこまる」
「ほら、川西やめさせたい人手を上げて」
 各々が好き勝手に喋り始めた。
 あかねは、自分の言ったことで余計に混乱させてしまった、と後悔した。
「ごめん、私は」
「ハイ、川西を追い出したい人!」
「多数決で決めたったからって他人の人生を台無しにしていいわけじゃないの!」
「私は!」
 あかねの声は、誰も聞いていないようだった。あかねは、騒動の外に出て、壁に寄りかかって騒ぎを見ていた。
 そのうちに騒ぎは治まり、部長が前になって皆が整列した。あかねもその列に加わっていた。
「じゃ、座って」
 部長はそう言うと話し始めた。
「やっぱり、いきなり結論は出せないので、まずは意見を出して。叩き出す、出さない、これ以外の案も必要だと思う」
 神林と山川が拍手した。
 部長の意見なのに、と思ったが、自分の意見に有利と見たのかもしれない。あかねは、周りをみていると、つられたのか、他にも何人か、拍手をしていた。
「拍手やめて。私は川西をこのままにしておくことに賛成をしている訳ではないから」
 拍手がピタリと止まった。神林は部長を睨みつけている。
「……で、意見を私が受け取ったり、神林さんが集めたりすると、偏った意見ばかりだ、と批判されてしまうでしょ」
 部長の視線を感じて、あかねは顔を伏せた。なんかイヤな予感がする。
「だから、意見を集める役を岩波あかねさんにやってもらおうと思うの」
 あかねは耳を疑った。
「え?」
 部長が自ら拍手した。
「異論がない人は拍手して」
 異論がない人は?? ある訳ないだろう、異論を言ったらこの役回りをさせられるんだから……
 神林が拍手した。
「いいわ。岩波さんで」
 山川も拍手をしている。
 部員みんなが、あかねを見ていた。
「よろしく」
 雪崩を打ったように皆一斉に拍手をした。下級生も上級生も、みんな。
 部長は手で拍手をやめるように促した。
「じゃあ、意見を集めてね。期限は一週間。その意見を見て、さらに一週間後に、部員投票して結論を出しましょう」
 やばい、とあかねは思った。そして、立ち上がると言った。
「ごめんなさい。ちょっと私出来ない」
「お願いよ」
 ダメか…… とあかねは思った。皆の視線が怖いし、部長も言葉は優しいが、語気は強かった。
「い、一週間で意見なんてまとめられないよ」
「じゃあ、もっと長くやる?」
 さらにまずい、とあかねは思った。
 長引いたらそれだけ意見が分散してしまう。マトメられるものもまとめられなくなる。
「ちがうの、一週間集めたら、まとめる時間がないでしょ? 金曜。金曜日の部活が始まる前までに出して。土日でまとめてくるから」
 部長がうなずいた。
 あかねに、座るように手で合図すると、まとめにはいった。
「じゃ、そうしましょう。金曜の部活が始まる前までに意見を書いて、岩波さんに提出すること。岩波さんは土日でまとめて月曜にそれを発表してちょうだい」
「記名しなくてもいいんですか?」
「記名しないでいいです」
 部長は周りを見渡し、落ち着いた思ったようだった。
「じゃ、五分休憩してから練習再開ね」

 あかねは、練習が終わると部室でボールの手入れをしていた。帰っていく先輩達が、チラ、っと自分をみて『お気の毒に』というような顔をするのがイヤだった。
 『お気の毒』なのは単に手入れの当番だから、という訳ではない。今日の部活の時に、来週の月曜までに、全員の意見をまとめ、部員が投票出来るようにしなければならないのだ。一方的に、反『川西』派の意見をまとめるのは簡単だし、怖くもないが、どう考えても少なくない数の、親『川西』派がいる。こんな役をすれば、いろんな厄介事が舞い込んできそうな予感がする、だから『お気の毒に』なのだ。
 上級生が着替え終わると、最後に部長の橋本さんがあかねのところに来た。
 耳元に小さい声で言った。
「あかね、ごめんね。なんかされたり、困ったことがあったら私に言ってね」
「はい、ありがとうございます」
 その言葉で、あかねは少し気持ちが楽になった。
「お先に」
「お先」
「おつかれさまでした」
「おつかれさまでした」
 上級生が部室を開けると、一年と二年が入って着替え始めた。部室が狭いため、女バスでは年功序列でこういうしきたりだった。
 あかねは、一二年の半分ぐらいが着替えて帰っていったころ、ようやく手入れが終わって、皆に合流した。
「あかね、困ったら相談してね」
「なんかあったら話して」
 着替えていると、皆がそんな風に声をかけてくれる。一人じゃないんだから、重苦しく考えることもないか、とあかねは思うことにした。
 着替えた後で、部室のベンチで少しぼんやりしていたら、皆は先に帰ってしまったようだった。誰もいない部室からボンヤリと校庭を見ていたら、廊下のドアが開いた。
「みく?」
「あかね、まだ残ってるの」
「うん、ちょっと考えごとしてた」
「そうだよね。ちょっと責任大きいよね」
「みくはどうしたの?」
「あかねと一緒に帰ろうかと思って」
 あかねは、なんとなく、川西をクビにするような意見を採用しないように、何か言ってくるんじゃないか、と思っていた。
 みくが来たのは、ある程度予想の範囲だった。
 一緒に帰るほど仲良くはなかったが、同じクラスだったし、断る理由もなかった。
「うん、一緒に帰ろ」
 あかねはバッグを背負って、部室を出た。鍵を締めて、用務員室の叔父さんに渡すと、校門へと走った。神林みくが、そこで待っていた。
「おまたせ」
「うん」
 あかねは、みくと少し距離をおきながら、なんとなく姿をながめていた。
 バスケをしている時も思っていたが、あらためて体つきをみると、みくは運動部には向かない感じがした。
 とにかく体が華奢な感じなのだ。太ももはそんなに細いわけではないが、膝から下は細くて、良くこれで練習についてこれているな、と思う感じだった。
 腕も細くて、やっぱりこれはシュートが打てないな、と思わせるほどだった。
 女子としてのルックスは確かに良いが、この子はバスケをする体型ではないのだ。
 二人で駅方向へ少し歩いていると、みくが話し始めた。
「私、皆から、川西先生をかばってる、ように思われてるよね。きっと」
 かばってるじゃん、事実、とあかねは思った。やっぱりこういう話しをしたかったんだ、これが毎日あるのかな、と思うとやっぱり気が重くなってきた。
「けどね。私は、川西はどうでもいいの」
「どういうこと?」
「私の気持ちなの」
 はぁ…… 本当に変わった子だ。
「私、パパいないんだよね」
 だから…… 唐突なんだよ、良く分からない。関連性も。なにもかも。
「皆に絶対黙ってるって約束してくれる?」
「う、うん」
 確かに、パパいない、ってのはキツイ話っぽい。話題にしずらいから、誰かに言うなんてことはないだろう。
 あかねは少し神林の方へ近寄った。
「パパ、自殺したの」
 え、重、重すぎる告白だよ。
「そ、そうなんだ」
「なんでだと思う」
「……わからないな」
「あ、そうだよね。うんとね、パパは普通のサラリーマンだったんだけど」
「うん」
「電車でね、痴漢にでっち上げられちゃって」
「え!」
「声大きいよ」
「ごめん」
「それで、会社をクビになっちゃって」
 ああ…… なんとなく、川西を庇う、というかその意味が分かった。
 それが理由だとすると、確かに川西も教師クビだろうし、新聞にも載るかもしれないし、雑誌の取材もくるだろう、自殺という可能性もあるよな。
 それが怖いんだ。きっと。
 もっとも身近な人の自殺で。
 けど、川西は冤罪じゃないんだよな。
 本当にやっちゃってる。認めてか、認めずか、土下座までしちゃってる。ちょっと状況は違う、と思った。それに、痴漢は明らかに狙って触ってるけど、川西のセクハラは教えるついでにタッチしたり、タッチ出来るような風に教えたりするところが厄介だ。

「それはお父さん、可哀想だね」
 あかねは、みくの父の話を聞き同情した。
「わからないよね! あかねに分かる訳ないよね! 何『可哀想』とか上から目線なの?」
 神林は、急にキレた。
「……ごめん、でも、みく辛いよね」
「いいの! 違うの! 同情してほしくないの!」
 キレたと同時に泣きそうな表情でもあった。
 そんなみくに対し、あかねは言葉が出なかった。
「最悪なのは『痴漢』とか言っちゃうバカ女なの」
 神林はキッと正面を睨みつけたまま歩いている。すれ違う人がびっくりしたような目で見ていた。あかねは、すれ違う人と顔を合わせないように下を見るようにして歩いた。
「だから、川西なんか関係ないの」
 あかねの方を向かずに、歩きながら言った。
「私の気持ちとして悲劇を繰り返したくない」
「川西に家族いたっけ」
「奥さんや子供がいないとしても、親兄弟や親戚はいるでしょう。全部親族に痴漢が出たってなって大騒ぎになるわよ」
 いや、『痴漢』は、みくのお父さんがかけられた嫌疑であって、川西は『セクハラ』なんだよ、と思い、あかねはみくの相手をするのに疲れてきた。
 みくは言った。
「私、意見を書いてくるから。ちゃんとそれを投票にかけてね」
「私がやらなきゃいけないのは、意見のまとめだから、そういう意見が多かったらってことになるけど……」
 あかねと神林はもう駅までの坂を登りきっていた。
 駅に近づいたせいか、人通りも多くなっていた。
 それなのに、というか。
 あえてここで、なのか。
 みくは泣きだした。
 あかねの前で。しかも大声を上げて。
「ちょっと、どうしたの、みく」
 買い物で行き交うおばさん達、家路を急ぐサラリーマン、店頭の品を並べなおすドラッグストアの店員、様々な人々がこっちを見た。
「泣かないで、意見として一人からしか出されていないものを、投票にかける訳にはいかないのよ」
 神林はしゃがみ込んで泣き続けた。短いスカートから下着が見えた。
 あかねはそれに気がつくと、慌てて自分のバッグをみくの前に置いて、周りの人から見られないようにした。それから傍にしゃがんで、みくの背中をさすった。
「みく一人の意見じゃないと思うから、きっと大丈夫だよ、ね?」
 神林は、あかねの言葉を聞いているのか怪しい状態だった。神林は、ずっと泣き続けている。
「ね? 他にも同じ意見の子がいるよ、だから心配しないで」
「あれ? 君」
 不意に声をかけられた。見上げると、サラリーマン風のおじさんだった。
 あかねは答えた。
「私ですか?」
「違うよ、そっちの子。どっかで見たことある……」
 急に泣き止んだかと思うと、神林は立ち上がって、あかねの背中を蹴った。
「わっ!」
 蹴られたあかねが、よろけながらおじさんに捕まろうとしたが、おじさんも予想外のことだったらしく、おしりをついて倒れた。
「すみません、おじさん」
 あかねはなんとか立ち上がったが、振り返るとすでに神林はどこかにいなくなっていた。
 あかねはおじさんに手を貸した。
 立ち上がるなり、おじさんは言った。
「よく見ると君もカワイイね。これからどう?」
 そしてニヤリ、と笑った。
 あかねは、ゾッとして、カバンを持ち上げるなり、それでおじさんを押した。そして反対方向へとにかく走った。
 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!
 声には出さなかったが、あかねはもうそれで頭がいっぱいになった。みくは何をしたの? なんであんなキモいおじさんに声かけられるの? とにかく、振り返らず、あかねは家に向かって走り続けた。

 あかねは、家に帰ってお弁当を受け取ったのだが、何かもう家の外に出たくなくなっていた。また、さっきのおじさんが駅前をウロウロしてたりしたら、と思うと怖かったのだ。けれど、もう塾が始まるまでそんなに時間がない。
「姉貴、どうした?」
 中学生の弟が、様子をみかねてか、声をかけてきた。
 この『姉貴』だが、弟が小学校を卒業すると同じ頃『お姉ちゃん』からアップグレードしたのだ。中学でそういう呼び方が流行っているか、お姉ちゃんと呼ぶと格好悪いと思ったのか、そんなとこなんだろう。
「なんでもないよ」
「……」
 何か言いたげな表情だった。
 しばらくして、弟が部屋に戻ろうとした時に、あかねは考えを改めた。
「あ、やっぱりなんでもなくない」
「やっぱりね」
「どういうことよ」
「何かある感じだったんだよ。姉貴が困ってる時はすぐ判るよ」
 弟は自慢げに語った。
「で、何すればいい」
「塾の行き帰り付き合ってよ」
「え? なんだよそれ」
 もっと弟の興味を引くような言い方にするべきだ、とあかねは思った。
「お姉ちゃんさ、さっきヤバイ人に絡まれたんだよ。だから護衛をして。ボディーガードね。ぴったり近くに居なくてもいいから」
「ああ、いいよ。いくら出す?」
 またゲームか何か買ったのか。金欠か、そうか、どうりでこっちの様子を良くみている訳だ。
「行き、帰りで500円」
「じゃあ、行きだけ」
「ダメ、行き帰り」
「それなら千円」
「たった五分、行き帰りで10分だよ」
「けど、おねぇちゃんヤバイんでしょ?」
 あ、いい間違えた、とあかねは、指摘したかったが、ぐっとこらえた。今日だけ、こんなことは今日だけだ、と思いなら、あかねは決断した。
「分かった、出すから」

 弟は嫌がったが、弟を前に歩かせ、その真後ろをついていくことにした。最初に提案したように距離を置かれてしまうと、威嚇的な意味がない。ああいう輩が寄ってこないことが一番肝心で、対処はやっぱりヤバくなってからの話しになる。男の人が付いていると、たとえそれが頼りなく思える弟であっても、社会的には違うのだ、とあかねは思った。
「ちょっと、引っ張るなよ」
「ちゃっちゃか先に行かないでよ」
「バスケ部だろ?」
「歩くのはバスケ関係ないでしょ」
 塾に近づくと、偶然美沙を見つけた。
 あかねが呼びかけると振り返った。
「え? あれ? あかね?」
「あ? 弟よ、弟のやまと」
「え? やまとくん、なの?」
 弟は会釈をした。
「彼氏、なのかとおもっちゃった。お久しぶり。覚えてるかな?」
 弟は頷いた。
「どうしてやまとくんといるの?」
「塾まで送ってもらうの」
「え?」
「話しは後で」
 取り敢えず塾に入ってしまえば、セキュリティが確保される。駅前の雑踏の中では、どこにあのおじさんがいるか分からない。さっきカバンで押したことで絡んでくるかもしれない。
 美沙とあかねは弟のやまとの後ろに並んで歩いた。何事もなく塾につくと、あかねはやまとに言った。
「帰りもよろしくね」
「ああ」
 美沙はそれを見て、言った。
「頼もしいね」
 やまとの顔が少し赤くなった気がした。
 その赤い顔を見て、あかねは『金の為だもんな』と言うのを止めた。弟は格好つけたい年頃なのだ。
 やまとが帰ると、美沙が言った。
「わざわざ弟くんと一緒に塾にくる事情ってなに?」
「……」
 結構同じ学校の人も出入りしている塾で、神林の件を話すのはどうか、とあかねは考えた。
「ごめん。帰りまたバクバク寄ってかない? 待ってるから」
「うん。私はいいけど、待つの大変じゃない?」
「弟もいるし。平気よ。じゃ、帰りにバクバクで」
 手を振って別れると、二人はそれぞれの教室へ入っていった。

 あかねは塾の授業が終わり、塾で合流してバクバクバーガーへ向かった。あかねは塾の宿題をしていたが、弟はゲーム機で遊んでいた。
 やまとはゲーム機を閉じると言った。
「姉貴腹減った」
「利子付けて返してくれるなら、お金貸そうか?」
「利子いくら?」
「週100円」
「じゃ、いい。今回の、行き帰りの護衛の金を先にもらうのは?」
「今支払うなら値段下げさせてもらうよ。だって帰りの分、どうなるか分からないんだから」
「ちゃんとやるよ」
 やまとは、うざったいな、という顔をしている。けれどまあ、これがいつもの会話だ。
「じゃ、やった分を払おうか、500円」
 やまとは店に貼ってある、季節メニューのポスターを見ながら何かブツブツつぶやいた。
「それでいい。じゃあ頂戴」
 あかねは500円を渡すと、やまとはカウンターに言って何か注文してきた。どうやら直ぐには出来ないものらしく、番号札を立てたトレイを持って戻ってきた。
「何頼んだの?」
「バクバク・クラムチャウダー」
 この時期にクラムチャウダーやってるのもビックリだが、頼む方もビックリだった。頼む人間がいるから提供している、というのもあるのだろうが。
 やまとが椅子に座ると、その影の先に、美沙が店内に入ってくるのが見えた。
「美沙! こっち」
「ちょっとチキン買ってくる」
 美沙はそう言って、席にカバンを置くと、そのまま下のカウンターに行った。
 美沙がチキンを持って帰ってくると、その後ろに店員も歩いてきて、やまとのクラムチャウダーを置いていった。
「クラムチャウダー?」
 弟はうなずいた。
「やってるんだよ、こんな暑い時期から」
「そういえば、コンビニの『おでん』も始まるもんね」
「美味しい?」
 弟はうなずいた。
「美沙、ちょっと相談が」
「うん、良いよ」
 あかねは、小さい具を一つ一つ確かめるように食べている弟をみて考えた。
「弟がいるからな……」
「なんだよ、じゃあっち行ってるよ」
 やまとは、トレーを持って、姿は見えるけれど声は聞こえない位置に移動した。
「やさしいのね」
「そうなのかもね。それより美沙、聞いてよ」
 あかねは、女バスの意見のまとめ役になったこと、神林みくのこと、変なおじさんのことを話した。
 最後に、付け加えた。
「何度も言ってるけど、川西の事は他の人や親に言ったらだめよ」
「うん」
 あかねは言うだけ言って、多少気持ちが落ち着いた。
「その神林さんはヤバイね」
 美沙はそう言った。
「何か、共生関係というか、そういうのが先生とあるのかもね」
「きょうせいかんけい?」
「助け合い、みたいなものね。先生が顧問でいるとか、学校の先生を続けていることで、神林さんが特をしているとか。だから多少面倒くさくても、顧問であってほしいとか、そういうことなんじゃないかと」
 あかねにはメリットがあるように思えなかった。ただ『どんなメリットなのか』が人それぞれ違うだろうから、本当にそういう関係なのかも知れない。
 あかねは言った。
「そこが知りたいね!」
「え? そこって?」
「神林さんにとってのメリットみたいなもの」
 美沙はあごに手をつけ、少し考えたようだった。
「先生を監視するか、神林さんを監視するか、って問題があるね」
「美沙が先生、私がみく、でどう?」
 美沙の顔が強張ったのが分かった。
「あ、えと……」
 美沙は口ごもっていた。
 あかねは閃いた。今日の塾の行き帰りと同じだ。
「じゃ」
 あかねが手招きをして弟を呼んだ。
「やまとと一緒ならどう?」
『え?』
 二人が一斉にあかねの顔を見た。
「どういう組み合わせ?」
「おね、あ、姉貴?」
 あかねは言った。
「土日どっちかの1日だけいいから。平日はいいからさ」
「えっと? 今週末?」
「お、俺だって」
「やまとは帰宅部でしょ?」
「帰宅部だって土日は関係ねぇだろ」 
「うん、土日。用事があるだろうから、どっちかでお願いできないかな?」
 弟は思い出したように言った。
「あ、バイト代出る?」
「美沙と一緒に行動出来るのよ? デートなら、あんたがお金ださなきゃいけないところよ?」
 自分で言っていて、いろいろ問題発言だ、と思ったが、やまとも美沙もそこはスルーした。
「だから、いいでしょ?」
「やだよ」
 やまとはチラっと美沙の顔を見てから、
「あ、その、美沙さんがイヤとか、そういうことじゃないですから」
 と言った。
「じゃあ、千円出すから」
「えぇ〜〜」
 たぶん、これでやってくれるだろう。中学生なんてチョロい。こっちも今月の金曜にお小遣いももらえるから、今回の報酬を払っても問題はない。
 あかねは手を合わせて頼んだ。
「美沙、やまと、本当にお願いね」
「そう言えば、WiFiの調査は?」
「あ、同じ日だっけ…… やまとと一緒にやってもらえる?」
 美沙があからさまにイヤそうな表情をした。
「あ、ごめん。私が頼んだんもんね。じゃあさ、今日やる? 今日?」
「いいよ」
 あかねはまさかの答えが返ってきてしまい、どうするかを考えた。
「やまと、今日これから何にも用事ない?」
「ないけど……」
「行けるってことね」
「……」
 あかねはやまとの返事がOKだと判断し、美沙に言った。
「じゃ、行こう。美沙、本当に今日やって問題ないの?」
 美沙は頬に手をあてて少し考えているようだった。そして言った。
「一度家に寄れば大丈夫。パソコン取ってくる」
「じゃ、決まりね」
「やまと、携帯かして」
 あかねはやまとの携帯から母の携帯に電話をかけた。ちょっと学校に忘れ物をとりに行く、やまとも一緒だ、と説明した。
「よし、じゃ、美沙の家に寄ってから学校ね」
 三人は同時に立ち上がった。

 あかねと美沙とやまとの三人は、まず学校の裏通りにあるWiFiスポットに向かった。学校が発信源なのか、それとも他にあるのか、を確かめないといけなかったのだ。
 美沙が家によった時、もうあまり使わない古いパソコンを持って来たので、それを使って、WiFiの電波を調べていった。
 ノートパソコンとはいえ、持って歩くには重いので、あかねがやまとに持たせていた。
「やまと君、ごめんね」
「大丈夫です」
「いいのよ、気にしなくて。帰宅部は運動不足なんだから」
 それを聞いて、やまとはあかねの方をキッと睨んだ。
 あかねは、ノートに位置ごとの電波強度を書き込んでいた。
「こんな感じだけど」
 あかねは美沙にノートを見せた。
「うん。確かにこの体育館の端っこを中心にしている、ように思うね」
「何なの? このWiFi。繋いでもいいの?」
 やまとは、パソコンを置いて、自分のスマフォに、その調べているWiFiの名前が出ることを確認していたようだった。
「あ! やまと、やめなさい。呪われるわよ!」
「呪われる? 姉貴、正気かよ」
「いや、わたしのスマフォ壊れたの、実はこのWiFiが原因じゃないかって思ってる」
「そんな馬鹿な」
「マジよ」
 やまとが騙されるか試すつもりで、真剣な表情を作って言った。けど、あながちウソでもないし、とあかねは思っていた。
「じゃ、やめとく」
「呪われるとか、信じたの?」
「いや、普通にパスワード掛かってないところはヤバイって言うし」
「やまと君偉い!」
 美沙が言った。
「やっぱり最初の予想通り、体育館ってことになったわね」
「じゃ、学校入ってみようか」
「いや〜 入れないでしょ?」
「こっちからはね。けど、正門って開くのよね」
 美沙が不思議そうな顔をした。
「え? この時間に?」
「まだ警備が入っていない時間は、正門の小さい扉も開いてるのよ。部活とかで遅くなった時に出入りしたもん」
「こんなに遅くまで練習するの?」
「試合の前とかに、たまにだけどね」
 あかね達は学校の正門に向かった。
 問題は職員室に残っている先生だ。先生が全員いなくなると、警備の機械をセットしてしまう。そうなるとセンサーが働くし、鍵も掛かって、出れなくなる。
 あかねはやまとを押し上げて、塀の上から職員室の様子を見させた。
「何人いるか数えるだけでいいから」
「え、どこが職員室……」
「明かりのついてる部屋よ、重いんだから早く数えて!」
「あれか。5人、5人はいるよ」
 あかねはやまとを下ろした。
「5人いればまだ大丈夫ね。カメラの位置を教えるから、そこだけ下向いて歩いた方がいいわ。後で何か言われるのやだから」
 あかね達はさっと正門の小扉から入り、体育館に行くまでに二箇所あるカメラのところで下を向いて顔が映らないようにした。
 体育館の入り口は、鍵か掛かっていて開かなかった。しかたなく、脇の細いところを通って、パソコンのWiFi強度を調べ始めた。
「やっぱり、こっち側に中心があるね」
「体育館の中で間違いないね」
「けどさ、この裏ってなにがあるの?」
「こっちだと舞台側だよね。準備室は反対側だし、なんだろ?」
 あかねには分からなかった。
「内側に小窓があって、確か、放送室っぽいのがあるんじゃなかったっけ?」
 その放送室に入るには、体育館の中に入らなければならなかった。あかねは決心した。
「やっぱり中入るか」
「あかね、そんなこと出来るの?」
「川西がまだいれば入れると思うけど」
「え? そんなことしたら、入っているのバレちゃうじゃん」
「そこはうまくやるんだけど…… ま、万一見つかったって、こっちも川西の弱みは握ってるし」
「いやいやいや」
 美沙がたしなめるように言った。
「あかね、部員の中にはそれをバラされたくない人もいるんでしょ?」
「そうだった。その為に私がまとめをやらされているんだった……」
 あかねは取り敢えず体育館沿いに回って体育準備室へ向かった。
「明かりがついてる。川西がまだいるってことだ」
「やまと、あっちの木の茂みまで行って、中に人がいるか見てきて。いなければ手でマルをつくるのよ」
 やまとは準備室から見えないように塀ぞいを歩いて、中が見える位置へ回った。
 コソコソと態勢を変えながら、あかね達の脇にある体育準備室の中の様子を見ていたが、何か分かったように塀側に来て、手でバツを作った。
「ダメか……」
 あかねが言ったとたん、大きな音がして準備室の扉が開いた。
 川西が出てくると、何か書類を持って職員室の方へ歩いていった。
「この隙に入っちゃおう」
 あかねは美沙の手を引っ張って、体育準備室に入り、体育館の中へと入ってしまった。やまとはどうしていいかわからず、そのまま外の茂みに隠れて動かなかった。

 あかねと美沙は、準備室を抜け体育館に入り、舞台袖のあたりで靴を脱いだ。あかね達は、泥棒のようなマネをしているにも関わらず、体育館を土足で歩くような神経は持ち合わせていなかった。
 二人は靴を手で持ったまま体育館の中を歩き回った。舞台裏の、直にコンクリートが出ている床は、履物なしで歩くには冷たかった。
 パソコンをやまとに渡したままだったので、アンテナ状況の確認は、美沙のスマフォで行った。やっぱり準備室の反対側でないと電波が届かないようだった。
 あかねが言った。
「けど、やっぱり何もなかったよね?」
「放送室みたいのがあったと思うんだけど」
「電気をつけないと、暗くて分からないよ」
 美沙は上を向いて何か探していた。
「上だよね、きっと」
「放送室なんてあったっけ? それって職員室の隣じゃないの?」
「それは放送部とかが昼休みの番組とかをやるところね。体育館で音楽流したりするじゃん。そういう設備の部屋があるはず」
 あかねは周りを見回しながら言った。
「ここには、そのWiFi設備はないの?」
「電源はあるけど、何も刺さってないでしょ? 見る限りここにはないと思うよ」
 確かにこういう、何もないところに電子機器があったらなんだろう、ということになる。放送室のような電子機器の集まる場所ならポンとそこにあっても気づかないかも知れない、とあかねは思った。
 上を見ながら、あかねは言った。
「あるなら上だよね? どうやって上に上がるんだっけ?」
「そうなのよね。さっきからそれを探してるの。一度、放送部の友達と機材を置くのに付き合って入ったことがあったはずなんだけど……」
 美沙は何か思い出したようだった。
「そうか、ここから上がったんじゃないかも……」
「体育館の上側の窓沿いに通路があるけど、そっちから入るってこと?」
 あかねは体育館での練習を思い出した。
 小窓があるはずだが、そこに扉は無かったはずだ。
「違うと思うけど、一度体育館内から見てみる?」
 二人は舞台を抜けて体育館の中へ出た。
 靴下だけだと、体育館の床は良く滑った。
「……ほんとだ、あかねの言ったとおりだね」
「うーん。あの小窓の中の部屋なんだよね」
「アンテナからの推測ではね」
「げて……」
「え?」
 二人は顔を見合わせた。
「逃げて……」
「聞こえた?」
「うん」
 あかねは暗がりのせいで、どちらから声が聞こえてくるのかがわからなかった。
「誰かに見つかった?」
「だって、誰もいないでしょ? 私にはあかねしか見えないけど……」
「!」
 あかねは、放送室の小窓に人の顔のようなものが浮かび上がったのを見た。
「美沙、あれ」
「え?」
 美沙が振り返って、放送室の小窓をみるが、何も映っていなかった。
「いないじゃん」
 美沙があかねの方を向くと、再び放送室の小窓に顔のような影が見えた。
「ひっ……」
 あかねが指さすと、もう一度美沙は振り返った。やはりその影は消えてしまった。
「確かめよう。やっぱり。なんとしても」
 美沙は怒ったような口調で、あかねの手を取り、もう一度舞台袖の扉へ向かった。
「私怖いよ、もういいよ、やっぱりやめようよ」
「絶対誰かが脅かしてるんだよ」
 小声だったが本当に怒りを感じる口調だった。あかねはしばらく考えてから言った。
「人だったら、こっちが見つかって、とか騒ぎになったら余計にヤバイことになるんじゃない?」
「けど、相手も多分、今学校にいるのは不自然なんだから、私達だけが悪いわけじゃないよね」
「逆に人じゃなかったら、本当に呪われるんじゃない? だからどっちだったとしても分が悪いよ。やめようよ」
 そう言って、あかねは美沙を引っ張り返した。
「うーん」
 美沙は何か悩んでいるようだった。
「とりあえず、あそこの下に行ってみよう。それからもう一度考える」
 美沙はあかねの手を振り切って、舞台袖の扉に入って行った。あかねはしばらくそれを見ていたが、再び小窓から人影が見えたら怖いと思い、走って美沙の後を追った。
「あかね! ほら」
「階段だ」
「そうよ。誰かやっぱりいるんだわ」
「上がるの?」
「この階段は折り畳み出来るのね。ということは、やっぱり『人が下りた』ということよ。呪いなんかじゃないよ」
 美沙は階段を上がって行った。そして上がりきると放送室の扉があった。あかねも続いて上がると、美沙は、静かに、と口に指を当てるしぐさをした。
 美沙が放送室を開けると、そこは本当に真っ暗なだけだった。
 目が慣れてくると、放送用の機材、ツマミのいっぱいついたものや、スライダーがついた機械が見えてきた。しかし、電源の入っている機械はひとつも無かった。
 そして、重要なのは、人もいないということだった。
「やっぱり階段をおろして逃げたのよ」
「もしそうだったら、私達がこの下からいなくなって、ちょっと体育館内を見ていた間だよ? そんなに早くこの階段って下ろせるの?」
「う〜ん。階段の出し入れ方法も分からないし、そこは後で考える」
 あかねはWiFiの事を思い出した。
「あ、WiFiは?」
「そうか!」
 美沙は思い出したようにスマフォを取り出し、明かりを付けた。
「見た感じないね…… WiFiスポット自体もないけど。ほら」
 あかねは美沙のスマフォを見た。確かにWiFiの表示の中にさっきまであったBITCHが無くなっている。
「そんなのなくなるもんなの?」
「あかね、ヤバイかも。急いで出よう。準備室以外から出る方法ある?」

 体育館の明かりのスイッチが入り、天井のライトが薄っすらと着いた。体育館は暗いままだったが、数秒経つと、ライトが完全に明るくなり、体育館全体が見渡せるようになった。
「誰かいるのか!」
 川西の声だった。
 あかねと美沙は、ギリギリのところで体育館から出ていた。
 体育館の脇の下部に細長く開く換気用の窓から出たのだった。通常は格子状に鉄線があって出られないのだが、修理予定の場所があり、そこには鉄格子がなかった。あかねは、たまたまその位置を知っていたのだ。
「美沙、なんで分かったの?」
 小さな声であかねはきいた。
二人は音を立てないようにやまとのいる場所へ移動している最中だった。
「分かったわけじゃないんだ。本当に勘。あそこの部屋から出たら絶対見つかる、ってそんな気がしてた」
 体育館の中から、川西が誰何している声がまだ聞こえる。
「ヤバイね」
「早く出ないと」
 二人は急いで準備室側にいるやまとと合流すると、体を低くして校内を走った。
 やまとと美沙の二人は息が切れて、何度も立ち止まった。学校に教師が残っている為、警備は入っていないらしく、侵入した扉はまだ開いていた。三人は音を立てないようにゆっくりと開け、そっと出た。
 出てから美沙は気がついたように言った。
「あ! ちょっとまって」
 美沙は扉に戻り、念の為、ハンカチでドアノブをクルリと拭き取った。
「いくらなんでも指紋なんて取らないよ」
「念の為」
 三人は学校から見えなくなる曲がり道まで、とにかく走った。
 美沙とあかねは、いつもの分かれ道に来て手を振って別れた。
 あかねとやまとも無事家に戻った。
「姉貴、今日のは高くつくぜ」
「何言ってんの、学校の生徒でもないあんたが入った方がよっぼど怒られんだから。これ以上払えっていうなら母さんに言いつける」
「……」
 母に言う、と言ったのが効いたようで、やまとは以降黙ってしまった。
「それより美沙に協力してあげてね」
 うなずくと自分の部屋に帰っていった。
 やまとの後ろ姿に、あかねは少し不安を感じた。
 あかねが学校につくと、クラスに女バスの連中が集まってきていた。あかねに気づいた町田が言った。
「あかね、意見書書いてきた」
 すると、後ろの集団から上条が町田の横に出て、言った。
「愛理のは、みくと一緒だから受け取らなくてもいいんだよ。あかね、こっちは川西反対派のやつだから。賛同する全員の名前も書いてる」
 今は、意見をまとめることであって、署名されても困るんだけど、とあかねは思った。まぁ、そんな署名の紙は無視するだけなのだが。
「う、うん」
「あかね、こっちも」
 町田ももう一度封筒を差し出し、受け取れとばかりに振った。
「うん、愛理。もちろん受け取るよ」
「けどさ、なんでこんなに集まってるの?」
「『リンク』で変なやつからメッセージ入って」
「?」
 あかねはまだ代わりのスマフォを持っていない。だから『リンク』で何かあっても全く分からないのだった。
 上条があかねに近づいて、耳元で言った。
「学校で言ったらだめだよ。『川西に触られ続けないと呪われて死ぬぞ』って書いてあったんだと」
「え?」
 え? とあかねは思った。呪われるとか、稚拙だし。なんかでも、あのWiFiといい、何故呪われる、なんて表現をするんだろう。それはそうとして、万一本当だとして、触れないと死ぬから、川西は、まんべんなく部員全員を被害者にしたのだろうか、とか、あかねは考えてしまった。
 今度は、町田が耳をかせとばかりに顔を近づけてきた。
「なに? 愛理」
「聞いたでしょ? 今のは川西先生処分派た仕掛けたのよ。こっちが、わざわざそんな小細工する必要ないじゃない」
 町田さんは親川西派なのだ、と改めて思ったが、確かにわざわざそんな事は書かないだろう。そんな事を書くのは、反対派にしろ賛成派にしろ、馬鹿だけだ。
 あかねは少しだけ、神林のことが頭に浮かんだ。
「まぁ、そうだよね」
 あかねは鞄を開けて、女バスの連中に言った。
「確かに意見書は預かったから」
 全員の視線が集まって、ちょっと緊張したが、あかねは二つの意見書をそのまま鞄にいれると、教室の中に入った。

 昼休みに美沙と話しながら、あかねはその書き込みのことを話した。
「実際にその書き込みを見たいね」
 美沙は、神林の方を見ているようだった。
「(いや、あの子は容疑者だから)」
「いいじゃん、何か判るかもしれないし」
「(私が声掛けるんだよ)」
「大丈夫だよ」
 美沙は神林と目があったのか、手を振った。
 あかねは慌てて言った。
「(なんでそんなことするの)」
「あかね、なんか用? 呼んだでしょ?」
「あ、あのさ、私スマフォがなくてさ」
「ああ、そうだったよね」
 神林は続きを待つような相槌をうった。
「でさ、なんか昨日部活の『リンク』に変な書き込みあったらしいじゃん」
「あったね」
 神林はまだ何がしたいのか分からないようだった。
「それ、見せてくれない?」
「なんだ、言ってよ」
 神林は、ようやく合点がいった、という表情になった。そしてスマフォを取り出すと、しばらくページを送ってから二人に見せた。
「ほら、ここ」
 確かに書いてある。
 あかねはメッセージを読んだ。
『一度触られた者は、触られ続けないと死ぬ』
 ばかばかしいにも程がある。
「みくは、これ、誰がやったんだと思う?」
「多分、女バスの人じゃあない」
「え? だって女バスの連絡用じゃん」
「誰かが、あの変なWiFiに繋いだんだよ」
 もしかして、私の事? あかねは思った。
「あ、あたしのは壊れてるから」
「あ、そうか、あかねの!」
 神林があかねを指差した。全くやましいところはないのに、何か、背筋にゾクっとくるものを感じた。
「え? だから壊れてるから」
「じゃあ、他の誰か。誰かいるの。誰かいるのよ。あれには繋いじゃいけないのに」
「うん。そうだよね」
 あかねは怖くなった。
 盲信的にそう信じる神林が怖いのではなく、本当に何かあのWiFiから何かが侵入して、誰かの携帯を乗っ取っているのかもしれない。
 全ての通話を聞かれているのかもしれない。
「あかね?」
 美沙が呼びかけた。
「あかねどうしたの?」
「え、どうかしてた?」
「神林さん行っちゃったよ」
「なんか怖くなってきた」
 美沙がキョトンとした顔で聞き返してきた。
「怖い?」
「さっき、みくが言ってたこと」
「?」
 美沙は良く分からない風だった。そしてあかねに言った。
「携帯のメッセージを見せただけでしょ?」
「?」
 今度はあかねの頭に『?』がついた。
 携帯のメッセージを見せただけ。携帯のメッセージを見ただけだったのだろうか? いや、自分がたずねて、みくが答えたのだ、単なる幻聴じゃないだろう。
「私がさ、みくにきいたよね? みく、どう思うって?」
「……」
 美沙は腕を組んで考えているようすだった。しばらくして、口を開いた。
「一度言おうと思ってたんだけど」
 あかねは何を言われるのか、全く想像が出来なかった。だから、わざわざこんなに間を空けて言う意味が分からなかった。
「何か、霊感というか」
「れいかん?」
「私の聞こえない声というか、お告げというか、幻聴というか……」
「げ、幻聴?」
 あかねは、急にさっき神林が言ったであろうことが、現実ではなくあかねにだけ聞こえた声なのか、と考え始めた。
 いや、はっきり言ったよね? 聞こえないのは美沙がおかしいんじゃ? だってこの前パソコンで検索した時だって、あんなに明確に指を差して教えているのに、『呪われる』という時が見えなかったし……
 それとも、美沙はずっとそう思ってたの? あかねは右から左から重力を感じるような感じがした。まともに立っていられない……
「そんな……」
「あ、そんな、た、たまにあるよね。大丈夫だよ、あかね、しっかりして」
 美沙があかねのことを気遣うように、腕をとってしっかりするように、と言った。
 あかねはまだ何かの力でふらふらと動かされているような感じがしていた。
 もう何か、何も信じれるものがない。どうすればいいんだろう。本当に呪われたのだろうか、このまま美沙に迷惑をかけちゃいけない。
「ごめん」
 あかねは、美沙を振り払って教室に戻り、教科書やら持ち帰るものをすべて鞄に入れると、また教室を出た。職員室に入り、担任に今日は家の都合で早退すると告げ、なにも連絡がないぞ、と引き止められるのを振り切って学校を出た。
 自分がいやになった。
 どうしてそんな声が聞こえたり、変なものが見えたりするんだろう。
 いつからそんなことがあると思われてたんだろう。
 どうしたら普通になるの。
 どうしたら美沙にあんな事言われなくなるの。
 自分はどうしてしまったのだろう。
 もうダメなのかも。
 今まで、皆黙ってたのかも。
 あかねは、どこを歩いているのか、意識もないまま駅についていた。
 そして、家に帰るでもなく、電車に乗った。考えることは同じことの繰り返し。自分が見たものが正しいのか、自分が聞いたことが正しいのか。幻影や幻聴の世界にいたら、自分はどれを信じて、どうやってそれを確認したらいいんだろう。
 私はどうしたらいいの……
 

ーーー
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 あかねはふらっと電車から下り、地上へ出るエスカレータを登った。どうやら住んでいるところより、都心方向へ来ていたようだった。車通りの多い道沿いを歩くと、川があった。古い橋が掛かっていて、川沿いには古いレンガで作られた建物があった。あかねがぼんやり川面を見ていると、そのレンガの建物の上を電車が通り過ぎた。
 何本かその電車を見ていたが、自分がどうしたらいいのか、どこへ歩いたらいいのか、答えは出なかった。もう何も考えない方がいいのかも知れない。そうでないと、また何か、人の見えないものや、聞こえないことを聞いてしまい、気味悪がられてしまう、そんな気がする。
 あかねは、なんとなくここがどこかを知っていた。わざと、どこか分からない、と思い込みたかった。だからあかねは走り出した。何も分からない道にたどり着くまで、息が切れて倒れるまで、走ってどこかに消えたかった。
 けれど、気がつくと着いた先も知っている場所だった。人通りが全く違ったが、記憶の中の景色では、ミチがメイドの格好歩いていた通りと一致していた。
 あかねは思った。
 ミチと同じになろう、と。
 あかねの中には、暗黙のうちに、ミチが悪いことをしている、という意識があった。実際、ミチが何の為にメイドの格好をし、どんなところで働いているのか、確証もないのに。それどころか、あの子自体がミチであったことすら怪しい。しかし、あかねの中では、ミチが悪いことをしているような気になっていた。
 そんなことをさんざん考えて、あかねは、自分が嫌になった。もう自分はどうなってもいい、そんな気持ちだった。どうせ自分の見えているものは他人には見えない。自分の聞こえているものは他人には聞こえないのだ。自分の価値なんかない、あかねはそう思った。
 あかねは、小さなビルの入り口に入ると、名刺ぐらいの大きさのチラシを一枚手にとり、そこに書いてあるフロアへそのまま階段で上がった。金属製の扉の前にはチラシと同じ会社の名前が書いてあった。
 ここを入れば、もう家族とは合えない、そんな気がした。家以外に、自分の居場所を見付けなければならない、そう感じた。
 あかねは、インターフォンを鳴らした。
 扉の奥で小さな物音がし、インターフォンのランプが付いた。
「ご用件は?」
 女の人の声だった。
「あ、あの」
「?」
「あの、私」
「開けます、お待ちください」
 また小さな物音が聞こえ、鍵をあける音がした。扉は小さく開いた。チェーンがかかったままだった。
 扉の向こうから少し覗く顔は、あかねの母よりは、少し若い感じの女性だった。
「お仕事したいの?」
 あかねは頷いた。
「お金に困ってるの?」
 あかねは首を振った。相手の反応を見て、間違ったような気がした。
 扉の向こうの女性は、つま先から頭まで、あかねのことをじっくりと見ていった。
「う〜ん。なんかピンとこないのよね。こっちも地雷は踏みたくないの。他のところに探してもらえる?」
 あかねは、こんなところでも自分は役に立たない、不良品なのか、と勝手に思った。そして涙が出てきた。声を出して泣きたいような感情の高ぶりはないのに、ただ頬を涙がつたった。
 あかねは階下に向き直ると、一段一段階段を下りていった。
 悲しいのか、悔しいのかもわからなかった。感情が乱気流に巻き込まれたように、ガタガタと震えているのかもしれない。
 あかねが階段を下りてくると、無精髭を生やした、太り気味の男が上がってくるのが見えた。すれ違うように、あかねが踊り場でまっていると、男はじっとあかねの顔を見てきた。あかねがすれ違おうとした時に、声をかけられた。
「君、セーヌの子?」
 あかねは一瞬反応したが、無視して階下に降りようとした。
「待ちなよ」
 あかねは男に腕を取られた。
 瞬間、体がビクッと痙攣したように反応し、心の中でも何かが動いたような気がした。
 あかねは無理やり振りほどくことをせず、男の言うことを待った。
「……店の子だろうと、そうじゃなくても、どっちでもいいや。デートしない? いつものように、そこら辺を歩くだけさ。店とは関係ないんだろ? 直接君のお金になるからさ、ね?」
 あかねの腕を離し、懐から財布をだした。
「なんなら、先に半額渡そうか」
 あかねはうなずいた。
「決まり!」
 急に声の調子が違って聞こえた。
 あかねの中で何度もその声が繰り替えされた。


 
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 あかねは、美沙とあるいた青葉の店を、男に手を引かれながら歩いた。ショーケースを見ながら興奮気味に話すのは、美沙と同じだったが、聞き取りやすさが違った。あかねが、その男の声に慣れてないせいか、ほとんど何を話しているのかわからなかった。
「……わからないよね」
 その通りだ、と言おうと思ったが、少し迷った。
 美沙からの知識が、聞き取りにくさを補完していたから、なんとなくは分かっていたのだ。
「そんなことないけど」
「本当に?」
「そういう友達いるから」
「それは男の子だろ、それは彼氏じゃないの?」
「女の子だよ」
 男は目を開いたり細めたりして、あかねの言ったことが本当かウソかを判断しているようだった。そんな目でみても、本当のことは変わらないのに。
「ま、いいや。じゃ行こっか」
 あかねは男の後をついていった。
 ビルの谷間に、本当に申し訳程度の公園があり、小さなベンチがあった。さらに奥に祠があり、どうやらそのせいでこの小さな土地を潰せなかったようだった。
「お散歩の時は良くここにくるんだ」
 男は言った。
「そして膝枕とかしてもらうんだけど。いい?」
「え?」
「そういや、値段聞かなかったけど、膝枕は、いくら?」
「え?」
「膝枕だよ。オプションだよ」
 あかねはなんと答えてよいかわからかった。最初にビルで会った時から、あかねが、そういう仕事の女の子だと思われているのだ。
「まぁいいや、お散歩代とコミコミで払うよ」
 いきなり男はベンチで横になり、あかねの膝、というか腿に頭をのせてきた。
「!」
 声を出しては失礼だ、という気持ちがあかねの声を抑えつけた。
「あのさ。今から話すこと、引かないで聞いてもらえる?」
「え、ええ」
 あかねはドキドキしながらそう答えた。
「あのさ。こういうお散歩している娘(こ)の中でさ、お金さえだせば、色んなことさせてくれる子もいるじゃん?」
 え、なんでそんなことをこの状態から聞いてくるの、とあかねは思った。悪いけどひきまくってますよ、と言いかけた。
「だけど、そんなのさ、誰に教わるわけにもいかないじゃん。だから、お散歩の女の子達って、仲間同士で練習するって聞いたことあるんだけど」
「え? 女の子同士で、ってことですか?」
「そう。あのさ。女の子どうしでする時ってさ。どんな感じなの?」
 え、もうそんなことをしているって決めつけてるの? あかねは頭を押して、ベンチから落としてやろうかと思った。
「私はそんなこと」
 言いかけたところを、男は遮るように言った。
「だってさ、君、土谷高校だろ? だったら知ってんじゃないの?」
「土谷高校?」
「判るよ。だって制服知ってるもん」
「……」
「誤魔化そうとしても無駄だよ。だって君と同じ制服の子とお散歩してるし」
 あかねはどうしていいかわからなくなった。同じ高校の子が、この男と散歩している。この男は、その子達が過激な『オプション』をすることを知っている。
 この男が、あかねに対し、過激な『オプション』を要求してきたらどうしよう、そんなことを考えて何もしゃべれなくなってしまった。
「赤くなった」
 男はあかねの顔を見て『にや』っとした。
「君かわいいね」
 背筋がゾッとした。
 これまでの人生を振り返っても、これだけ気持ちの悪い声と言葉を聞いたことがない。
 加えて、あかねはその男の顔を見すぎて、なにかそれが人の顔に見えなくなってきていた。ブヨブヨとうごめく、肉色のシートを被せたキャベツのような、そういう何か人ではない物体に思えた。あかねは、頭に、ゲシュタルト崩壊、という言葉が浮かんだが、意味は思い出せなかった。
「あのさ。君がさ。お友達と、そういう練習しているところをさ。写真にとってきてくれないかな? カメラも渡すし、前金も出すからさ」
「いや!」
 あかねは男の頭を押し退けた。
 男は頭だけでなく、体もベンチから落ちてしまった。
「こいつ!」
 あかねは立ち上がってカバンを取ると、思いっきり走った。ただ人のいる方へと走った為に、それがどこに向かっているかわからなかった。
 男の声が続けて聞こえたような気がしたが、もう何を言っているかわからなかった。息がきれてきて、走ってきた方を振り返ったが、そこには知らないひとが歩いでいるばかりで、その男はいなかった。
 それでも怖くて、何度かおなじように苦しくなるまで走り、振り返ってから再び走った。
 あかねは、本当に初めての街を歩き始めた。


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